第22冊ノート(2024年7月8日~2024年9月22日)

CoyaNote2024012

ワガママ
ゼイタク
ヨクバリ
ナマイキ

2024年7月8日

水筆について

前からずっと気になっていた水筆というものを、今回初めて使ってみた。

水彩で、筆と水の量に苦労していた。水が少ないとパサパサとした筆致になってしまい、絵の具も広がらない。しかし水の量を増やすと、びしゃびしゃになってしまい、コントロールが不能となってしまう。特に細かい部分が滴のようにこんもりとふくらんだ塊になってしまい、なかなか乾燥せず、我慢できずに他の色を塗っていて、ほんの少しでも滴に筆先が触れてしまうと風船が割れたみたいに絵の具が滲み込んで、にじみ、色が混ざり、画面を汚してしまう。これも表現効果の一つだともいえるが、色や絵の具をコントロールできないことが大きな課題であった。

葉書の宛名を書く際の筆ペンや、絵手紙を描く際の彩-SAI-のような筆の利点はそのままにペン感覚で、手軽に色の塗れる方法がないか模索していた。

そこで目をつけたのが、水筆である。軸に水を注入でき、いちいち水をつけなくとも自動的に筆先に水が供給されるというものであった。

まずメーカーについてだが、ぺんてる、呉竹、サクラクレパス、ステッドラーと主に四つがあり、大きさや価格などを比較検討し、ぺんてるのシリーズに呉竹の平筆を一つ追加する編成とした。

軸のタンクに水を入れる過程だが、ぺんてるは水道の蛇口から難なく注入できるのに対して、呉竹はスポイトのように軸を押しつぶして吸い込ませないとならず、とても入れにくい。この点から、水筆はぺんてる一択であることが決まった。

ぺんてるの水筆は、ぷっくりとふくらんでいて当初はこれが描画の際に引っかかってしまうのではないかと心配していたが、実際に使ってみるとまったく問題ない。ペンや筆との違和感もなく握れる。

絵の具を溶く過程では、タンクから絶え間なく一定量の水が供給されるため、気をつけないと水が多くなりすぎる。

そして塗る過程についてだが、その効果は絶大であった。水が不足して絵の具がパサパサとかすれることなく、同じような感覚を維持して塗れる。これだ、求めていたのはこの描写だ。期待以上の結果となった。

もちろん、輪郭線からはみ出したり、色が重なって境界がにごってしまったり、そして滴ができてしまったりと、いつものトラブルは起きたが、これらはそもそも筆の使い方、技量の問題であり、少なくとも水の量という長年の課題は、水筆によって完璧に解決できた。

水筆は水彩だけでなく、アクリルにも用いることができるだろう。この筆を使って描くことを、今から楽しみにしている。

水筆という新たな、そしてとてつもなく強力な武器を手に入れた。これからの絵は確実に進化することとなるだろう。

2024年7月20日

水筆によるアクリル絵の具の塗りについて

水筆を今回はアクリルで使ってみた。

まず前段階として、呉竹の水筆もタンクに満タンに水を注入するコツを掴んだ。これでどの水筆もベストな状態で使用できる。

水彩よりも粘り気があって濃いアクリル絵の具であるため、最初に筆先につけた時はやや硬く、塗ってもパサパサしていてかすれが目立つ。しかし、ここで軸を押して水を足すと、たちまち水分が過多となって絵の具はしゃばしゃばの薄いおつゆのようになってしまう。水彩の時と同様に、こんもりと盛り上がった絵の具の滴が隣接する絵の具に少しでも触れると、瞬時に混ざりあってまだらになってしまう。グラデーションをつくるのであれば最適であるが、それはむらのない均一の塗りという求める色彩表現と対極のものである。

パサパサとかすれた状態から、何回かぐりぐりと筆のストロークを重ねていくと、次第に水が加わって絵の具がさらさらと滑らかに供給されるようになる。そのタイミングや水加減を把握してコントロールできるようになることが、当面の課題だ。マスターしないと、すぐに水の量が過多となってしまい、アクリルの場合はまるで泥のような状態の絵の具となってしまう。泥絵の具というものもあるが、果たしてそれが求める色彩表現にとって最適なものなのかはまだわからない。

今回は紙に描いたから、一塗りで終わったが、何度も重ね塗りを行うカンヴァスにおいて、水筆を使う効果があるのかという疑問もある。おつゆ描きから始まって、水の量を減らして徐々に濃度と粘度を高めた絵の具を塗っていく描法では、絶えず水を供給する水筆は不要なのではないだろうか。

とりあえず、仕上がった作品は、従来のアクリル画と同じクオリティーの出来となった。実感としては、水筆を使うことで制作の負担が軽減されたような気もするので、効果はあると思いたい。
 いずれにしても、水筆の使用方法について、研究と考察は続く。

2024年7月29日

追伸
毛ではなくフェルトタイプの水筆もある。こちらであれば、フェルトペンと同じ感覚で水彩やアクリルを塗る(線描するといった方がより適切か)ことができるかもしれない。近日中に入手して確かめることとしよう。

水筆について―ハケ型詰め替えチューブの使用―

100円均一ショップの商品で、ハケ型詰め替えチューブというものがあることを知り、早速入手して試してみた。

本来はメイク道具であり、BBクリームやファンデーションなどのゲル状の液体を手を汚さず塗って伸ばすためのものであるが、水を貯めたタンクの先端に毛筆が装着してあり、筆先に水を供給する構造はまぎれもなく水筆のそれである。

使ってみた実感としては、なかなか良いというものである。幅があるので広い面積を塗れる。通常の筆であれば、すぐに水が足らなくなってかすれてしまうが、これは絶えず水が供給されるため、同じテンションを保ったまま色が塗れる。細かい部分を塗るのには適さないが、背景や地塗りなど、使用できるものは数多い。水の量がポイントになりそうだ。

また、描画用の筆ではないからなのか、絵の具を浸して塗った際、色の濃さにむらが出てしまう。グアッシュであればこのようなむらはなく、均一的な色が塗れるのであろうか。

さらに、水と絵の具を同比率で溶いた色水をタンクに注入し、インクのようにして塗るという使い方もある。

新たな、そして強力な武器がまた一つ手に入った。

2024年7月30日

追伸 グアッシュならほぼむらなく塗れた。

マスキング液の使用について

水彩で白抜きする際に用いるマスキング液というものを、今回初めて使ってみた。

チューブから直接塗ろうとすると、量を調整するのが難しい。面を塗るのならいいのかもしれないが、線描となるとダマになってしまう。ボンドのように楊枝の先につけて伸ばしていくのがよいだろうか。

また、量が多いと濃くて固まるのに時間がかかる。薄く均一に塗るのが鉄則である。

液が固まり、絵の具を塗った後で剥がす。ゴムのようになっていて、指の腹で擦るととれて、白抜きができるようになるのだが、ここでも、塗りすぎると画用紙の表面が削れて毛羽立ってしまう。使い方にコツが必要だ。

マスキングテープでも、カッターで切り抜けば複雑な形にすることができる。状況や目的に合わせて、両者を上手く使い分けていくのがよいだろう。

2024年8月2日

水彩について―ぺんてるエフとグアッシュ―

水彩でどの絵の具を使うのがよいか、模索している。

これまでは、ぺんてるエフを使っていた。透明水彩風のさらりと淡い作風にも、グアッシュ風のこってりと濃い作風にもできるのだが、技量がないとどっちつかずで中途半端な、おもしろみも魅力もない表現となってしまっていた。求める色彩はどのようなものなのか、それをしっかりと決めてから描かないと、軸がぶれて迷走してしまう。

理想としては、ムラやかすれのない、均一な色面を塗りたい。グアッシュのそれだ。であれば、グアッシュを用いればよいのだが、コストパフォーマンスを考えると、ぺんてるエフの方が圧倒的に安価である。

水の量が問題なのか。水が多いから、しゃばしゃばの滴のような塗りになってしまう。パサパサでかすれない程度の、ギリギリの水分量、最適な絵の具の濃度、粘度、それをコントロールできる能力が不可欠だ。水筆はそのための強力な武器だ。

色を塗った後、仕上げの輪郭線の引き方でも迷っている。ピグマペンか、三菱ペイントマーカー、墨汁、どれを用いればよいのか。厚塗りした絵の具の上では、インクがうまくのらずにかすれてしまう。問答無用で絵の具の上から覆い被さるように濃くくっきりとした線が引けない。今回は三菱ペイントマーカーを使ったが、それが最適なのかはわからない。それは、線の太さとも関連してくる。太ければ太いほど、絵は写実性から遠ざかり、ポップで可愛らしい偽善体となる。色彩表現との相性も勘案して、求める輪郭線の太さもしっかりと定めておかないとならない。

水彩について、新たなスタイルの確立のため、手探りと実験、試行錯誤はまだ続く。

2024年8月3日

水筆でアクリルを塗ることについて

水筆で新しい作風を確立するにあたり、そのプロトタイプとして制作を行った。

アクリルで塗るうえで、水分量の調整はとても重要である。少ないとパサパサとかすれてしまい、ギザギザとささくれた塗りになってしまうし、多すぎると滴のようになってしまう。この水分量の調整が、水筆では上手くできるような気がする。その証左として、今回は絵の具がはみ出したり交錯したり、混ざり合ったりせず、塗り絵のようにかなりきれいに塗り分けることができた。それは、むらなく均一に塗れるアクリルグアッシュの長所によるところが大きいだろう。

ただし、作品の彩り、装飾を担うとても重要な部分である服の模様について、ギザギザ、パサパサ、輪郭線からはみ出るという仕上がりになってしまった。より細かくて塗りにくいはずのペロペロキャンディーの模様はきれいにできたことを考えると、ボーダーやギンガムチェックなどの模様を描く際には、目安となる線を引くのがとても有効であろう。

今回は、塗り分けがきれいにいったので、輪郭線はあまり太すぎないようにしてみた。やや弱弱しい印象もするが、太く黒々とした輪郭線による偽善体とは明らかに異なる作風となった。新しい作風のためのヒントは、おそらくこのあたりにあるのだろう。

実験ということで、ボーダーやギンガムチェック、ペロペロキャンディーの模様の部分は、輪郭線を引かなかった。色の端の不出来を輪郭線で隠したり誤魔化したりできないため、色の塗り方のクオリティーを挙げる必要がある。

また、人物の顔のパーツについては、目と口を線で漫画のようにして描いてみた。もっと幼稚になるかと思っていたが、意外にもしっくりきている。写実性や誇張とはまた別の方向で、可愛らしさを表現することもできるのかもしれない。

以上をまとめると、1.水筆にアクリルグアッシュだときりに塗り分けられる、2.輪郭線は必要最低限の太さとする、3.ボーダーやギンガムチェックなどの模様を塗る際には目安の線を引く、4.目や口などの顔のパーツを線で表現する、これらが新しい作風の方向性となるだろう。

2024年8月10日

白ヌキにおける型紙の使用について

彩色を施す際の白ヌキについて、これまでマスキングテープとマスキング液を使用したが、今回は型紙を導入してみた。

素材の紙は特厚のOAペーパーを用いたが、それでもぺらぺらで、水彩絵の具を塗るとたわんでしわが寄ってしまう。ボール紙か段ボール程度の厚さが必要なのかもしれない。

支持体の上に型紙をのせるのだが、固定方法に課題が残る。表の縁をテープで留めるわけにはいかないので、マスキングテープを輪っかにして裏に貼り付けたのだが、細かい部分が固定できずに浮き上がって隙間が生じてしまう。この隙間から絵の具が入り込んでしまい、血痕のようになってきれいに白ヌキができない。付箋紙に使用されているような、貼ってはがせるタイプの糊で仮留めすることも検討しなければならない。

広い面積で、半円や四角など単純な形をマスクして白ヌキするには、型紙の使用はとても有効である。逆に、人体など形が複雑なものには不向きである。型紙を切り取る際の鋏の動きによって、形のクオリティーが決まってしまう。

型紙の防波堤によってせき止められた絵の具が盛り上がって、白ヌキ部分との境に段差ができた。白ヌキ部分を塗っていくと、輪郭からはみ出すと、バチック技法のように白い筋が生じる。少しのずれも許されず、精密に塗ることのできる技術が不可欠だ。

今回はグアッシュを用いたのだが、白ヌキ部分を白い絵の具で塗ったら、水分の量が不足して厚塗りになったからなのか、亀裂が入って、修正テープの上から尖ったペンで書き刻んだ時のように絵の具がパリパリになって剥落してしまった。ぺんてるエフや透明水彩でも同様の現象が起きるのかは不明だが、アクリルの時のように、絵の具のヒビ割れにも注意を払わなければならない。

以上、今回の試行より得られた知見としては、白ヌキについては、広い部分を単純な形では型紙、細かい部分を複雑な形ではマスキングテープをカッターで切り抜くというのが最適であるということだ。また、描線を白ヌキする場合は、マスキング液の出番であろう。

色を塗り重ねていくだけが絵ではない。白ヌキで色を塗らない部分もつくること、ネガ構造も意識し、駆使してこその絵画テクニックである。

2024年9月1日

CoyaNote2024013

自宅のトイレが詰まった。

2年前に、誤ってシミ消しクリームのボトルを便器の中に落として以来、流れが悪く、ウンコをしてトイレットペーパーを使うと、ちっとも流れないという状態になっていた。ションベンの時は問題ないのに、ウンコになると全然流れない。ウンコをする度に、ラバーカップをすっぽんすっぽんさせて、どうにか汚物を流していた。

それが最近、ラバーカップを使っても詰まりが解消されないようになってしまった。レバーを引いて水を流すと、水が溜まってあっという間に水位が上がり、便器からウンコ水があふれるということになる。ウンコで真っ茶色に汚れた水の他、水でふやけたウンコのカケラそのものがあふれて、床にまき散る、世にもおぞましい汚い光景。不潔な洪水。それがずっと続いていた。

ラバーカップを排水口につっ込んで、すっぽんすっぽんと上下させるのだが、ちっとも効果がない。

―すっぽん、すっぽん―

―ゴポゴポゴポ―

―すっぽん、すっぽん、すっぽん―

――ゴポ、ゴポ―

奥歯にものが詰まったような、消化不良で異物、汚物が下水管の中を我が物顔で占領する不快さ。クソ、クソ、クソが。いらだちでラバーカップを激しく動かすと、水がはねてしぶきが顔や体にかかってしまう。汚いウンコ水がだ。

これはまいったと、通販で加圧式パイプクリーナーを購入した。自転車の空気入れのように、ポンプの中に空気を溜めて、引き金を引いて圧力で空気の衝撃波を放つガンのような器具である。シュコシュコと空気を溜めて、ウンコ水が溜まった便器に銃口をつっ込んで、引き金を引く。ボンッと破裂音が出て、空気の砲撃を発射したのだが、何も変化がない。下水管の中のつまりを崩すほどの威力はないのか。もう一度空気を溜めて、発砲したら、ウンコ水がはね上がって、しぶきやトイレットペーパーが顔や体にかかる。汚い、汚い、キタナイ。とっておきの秘密兵器も、全くの期待外れだった。

重曹やクエン酸、漂白剤、台所用洗剤など、さまざまなものを便器内に投入して、詰まりを溶かそうと試みるも、効果はない。何をどうしても、水を流すと便器の中に水があふれ、フチからこぼれてしまう。ビシャーという音は、絶望と死の断末魔の叫び。

もはや、トイレでウンコもションベンもできない。人間として死んだようだ。

2024年9月8日

CoyaNote2024014

ボール紙を切って折り曲げて、函を作った。

ちくちくと刺さるような苛立ちに襲われながら、定規で線を引くのだが、1~2mmズレる。わずかなズレが、最終的に大きなゆがみとなることはわかっているのに、それを改善することができない。垂直、水平にきちんと線を引けず、斜めになってしまう。

なんとか線を引いた後、カッターで切っていくのだが、ここでもお得意のズレを披露してしまう。体がゆがんでいるから、定規や線からはみ出す。力いっぱい何度もギコギコカッターを引くが、切り口がガタガタとなる。

形を切り抜いたら、折り目に沿って鉄筆で溝をつける。ここでも同然のようにずらす。溝をつけたはいいが、どちらに折り曲げればよいのかわからず、きれいに折れないどころか、バキッと破れたようになってしまう。

のりしろに塗付するのりを、テープのりにするかボンドにするか迷い、テープのりを選んだのだが、接着力に疑問が生じて、ボンドにすればよかったと激しく後悔する。

一応、要件を満たすだけの函のような物体ができたのだが、寸法が正しくないのでジャストフィットせず、ブカブカになる。

不器用にも程がある。函も満足に作れないクズは、生きることも許されない。

2024年9月9日

CoyaNote2024015

今日もまた、何一つできずに一日が無駄に殺されていった。

一応、絵を描こうと試みるが、白紙を前にして何を描けばよいかと途方に暮れる。あれを描こう、これを描こうとしても、そんなものを描いても何の意味もない、せっかくの貴重な紙を無駄にするだけだと思ってしまい、何も描けない。いつもの「何を描いても意味がない病」がまた発症してしまった。

それを描くことで、何らかの効果や変化が発生することを期待しているようだ。そんなものを求めているから、いつまで経っても絵が描けない。絵を描くことに、芸術や創作に意味を求めても意味がない。行為そのものを楽しむこと以外に、意味などない。何かの用途や目的を果たすための創作などできるほどの技術も才能もないのだから、余計なことは考えなくてよろしい。紙の無駄遣いを憂慮するのなら、そもそも絵など最初から描かなければよい。

信念や軸はたった一つ、どんな状況下でも描き続けること、描いた者が一番偉い、下手くそな絵は下手くそにしか描けない、これだけだ。他のことは一切無視して、ただ描け、とにかく描け。

2024年9月14日

ドローイングについて

序論

便箋の台紙や段ボールの端材など、余った厚みのある紙に画用紙を貼り付けて、パネルのような支持体を自作した。それに何を描こうかと悩んでいたが、苦しみの末になんとか仕上げた。いくつか得られた知見について、記しておく。

1. 色つきの支持体について

ハンドメイドのパネルのうち、2枚は色のついた和紙を貼った。箔なども漉いてあり、とても特徴のある背景である。これにペンでドローイングをした。線だけでなく、塗りつぶしたり、唇の部分のみ赤インクで描いてみたりと、、いくつかのパターンを試した。

背景の色とドローイングのインクの色との相性が、まず重要である。基本的には黒のインクでドローイングするのだが、濃い色や暗い色の場合は、他の色のインクを用いることも検討しなければならない。

マッキーは、わしだとインクがしみてぼわーっとにじんでしまう。ドローイングの線がシャープではなく、ギザギザ、ボコボコした見た目となってしまい、それは墨を使った場合にも当てはまるのだろう。このような見た目の線を描きたいということもあるだろうから、和紙にドローイングする際は、求める線によって用いるインクの種類を選択する必要がある。

色つき支持体は、やはり作品全体の印象が白紙のものと大きく変わってくる。箔が漉いてあるとなおさらだ。そして、このような色つきの背景に、ドローイングの線による表現はとても合っている。ドローイングの線の色は、原則として1つ、ワンポイントのアクセントとして小さな部分にもう1色使うくらいで、多くの色数を用いないことが肝要である。

今後、線によるドローイングは、色つきの支持体に描いていくこととする。

2. スマホのアプリの使用について

また、今回、試験的にスマホのアプリを使用してドローイングをしてみた。半透明の下絵と支持体がディスプレイ上で重なり合い、それを見て線を引いていくという仕組みなのだが、期待していたほどの効果はなかった。

以前に、同様の仕組みのお絵描きおもちゃを使ってみたこともあったのだが、モニターやディスプレイなど仮想の画面上の下絵を見ながら、実在の指示体に線を引いていくというのが苦手のようである。トレース台やプロジェクターを使って、支持体の上に浮かんだ実体のない(触ることのできない)線をなぞっていく手法しかできない。今回それがはっきりとわかったことが、一番の収穫である。今後、スマホのアプリを使用することはないだろう。

もう一つ、仮想の線を実ながら支持体の上にそれを再現していくのは、えっさんの本質そのものであるが、その時意識しなければならないのが、線は一筆描きのように一発で引くのではなく、何本も候補となる短い線を重ねて、形を探っていくということである。一発で求める形を完璧に描くことなど不可能なのだから、少しずつ、いくつも試しながら、形をつくっていくしかない。一本の長い線ではなく、短い破線で全体の形を大まかに決めて、そこから細かい部分を仕上げていく、総論から各論へというロジカルな手順こそが、デッサンである。

今回の件でいえば、ディスプレイ上の下絵を見ながら支持体に線を引く際に、一筆描きせず、極細の短い破線を重ねて形のあたりをつかんでいくということである。その後で、太い線をつなげて、詳細にしていく。最初のあたりの線は目安であり、そして初期衝動でもある。それを大切にしつつ、最終的な完成を目指すという手順の分割が不可欠である。

3. 段ボールに紙を貼ることについて

白い水彩紙を貼ったパネルのうち、段ボールを使用したものに、色鉛筆を塗ったのだが、波打ちの凹凸をこすりとるフロッタージュになってしまった。目視では平らに見えても、実際は滑らかではないので、色鉛筆を使うとフロッタージュは避けられない。

そもそも、厚紙に紙を貼り付けてボードをつくるということが間違っているのかもしれない。画用紙はペラペラの1枚のままで、段ボールなどの厚紙にはジェッソを塗って、それぞれ描いていくべきものなのかもしれない。ベニヤ板に画用紙を水張りしていくことや、日本画のパネル装とは同じように考えていると失敗する。

いずれにしても、この仕様のパネルに描くのであれば、色鉛筆で塗っていくことはできない。ブラウン管の画面のような、ノイズの筋が入った様子など、よっぽど特殊な表現をする場合にしか使い道はないだろう。

4. ヘタウマな絵手紙風スタイルについて

今回のドローイングでは、墨を用いてみた。筆の他に、割り箸を尖らせたものも使い、ペンと同じくらい細い線も引けることがわかった。墨を用いることに、抵抗感やためらいを持ってはいけない。インクペンや水彩と同様に、描画材の主戦力として起用していくのが、今後の構想である。

墨で引いた輪郭線の中を、ぺんてるエフで水をたっぷり使って淡く塗っていくと、ヘタウマな絵手紙風になった。色のムラや塗り残しの白い部分などがあると、よりそれらしくなる。これも一つのスタイルとなるだろう。

脚の部分を塗った水彩の上に、水で極めて薄めた墨を重ね塗りすると、ストッキングを穿いたマティエールが表現できる。透明水彩だからこその重ね塗りというものもある。

ヘタウマな絵手紙風ではあるが、ぺんてるエフはクオリティーが高いので、色彩はとても鮮やかである。水彩紙を支持体としていることも大きい。

5. 墨と筆によるドローイングについて

水墨画のように筆のタッチや動きを生かした自由なドローイングも行なった。ただし、デッサン力が皆無のため、何もない紙の上に描いても求める形を得ることなどできないから、あらかじめ極細のピグマペンでガイドラインを引いておいた。その上を、筆を使って踊るようにドローイングしていった。結果として、ペンでは絶対にできない力強い表現となった。これは使える。

ガイドラインを引くなど、邪道の極みだと思うが、デッサン力の欠如は卑怯な手段でも使ってカバーするしかない。全く何もない白紙の上に描いていくのは自由であるた、ある程度の目安となるもの、型があった方が上手くいくこともある。

真っ黒な墨の描線によるドローイングの中で、小さな唇の部分のみ水彩のピンクで塗ることで、紅一点というか、アクセントとなってひときわ目を引く。第1章でも述べたが、ドローイングは1色、アクセントにもう1色、最大で2色しか使ってはならない。

6. 鉄筆の使用について

ガイドラインを引くにあたって、極細のピグマペンの他に、鉄筆も使ってみた。

鉛筆で線を引き、その上をインクペンでなぞるのではなく、鉄筆で線を刻んでいく。鉛筆の線を消しゴムで消すと、鉄筆の線だけが残るというものだ。ただし、鉛筆の黒鉛が溝の中に入り込んでしまったので、これは今後の課題としたい。

こうしてできたガイドラインの上に、墨で線を引いていく。予想では、溝の部分のみ墨がのらずに白い線が浮かんでくると思っていたのだが、実際は鉄筆の痕跡はほとんど感じられないほど消えてしまった。光の当て方や見る角度によては、うっすらとわかるのだが、距離をとって正面から眺める分には、ほとんど気にならない。ガイドラインとなる線が残ってしまうことは、大きな懸念事項であったが、鉄筆はそれを解決するヒントとなり得るだろう。

鉄筆を使いこなせるようにならなければいけない。

7. グアッシュについて

色の塗りに、グアッシュも使ってみた。色見本を参照し、三原色と白を特定の割合で混ぜて色をつくっていく。

これまで、グアッシュを多くの水で溶かして薄く塗っていたが、絵の具の量を濃くして、デロリ、ドロリと粘度の高い状態にすると、アクリルグアッシュと同じような感覚で描けることがわかった。濃く、はっきりとして、ムラやかすれのない均一でマットな色彩、これこそがグアッシュ本来のものだろう。ようやくそれがわかった。

結論

手作りのボードでドローイングをしてきた。いくつもの重要な、今後の方向性を決める収穫も得られた。

今後、厚紙に紙を貼り付けるということはしない。紙はそれぞれで用い、描いていく。

線によるドローイングは、色のついた支持体に描いていく。色はアクセントも含めて2色までとする。

墨を使うことを恐れない。筆と割り箸ペンで広がる可能性は、インクのそれの比ではない。透明水彩と組み合わせれば、ヘタウマな絵手紙風になるし、グアッシュと組み合わせれば、ポップな作風になる。墨を制する者が、絵画を制す。

2024年9月17日

これからの自分の在り方、方向性について

もう39歳、来年には40の大台にのってしまう。いくら自分では幼くて未熟なガキだと思っていても、世間一般の価値基準では、もうおっさん、中年である。年相応、身分相応になるよう、これからの自分の在り方、方向性をそのように定めていかなければならない。

案として考えているのが、メガネは金縁でダブルブリッジのティアドロップ型、髪型は七三分け、肩パッドの入ったダブルのスーツ、カバンはセカンドバッグ、仕事中はアームカバーに緑色の指サックを装着するというものである。自分のイメージするおっさん、中年男性の姿がそのようなものであるが、ここで大切なのはその方向性である。ここがあやふやだと、軸がぶれて立派なおっさんになれない。

おっさんとは、まず若さの対極である。枯れた年寄り、死を待つだけの老人である。古さ、劣化こそがおっさんのイメージだ。

また、おっさんというと、ダサい、イケてない、センスがない、どんくさい、鈍い、グズノロ、デリカシーに欠ける、汚い、不潔、太って醜くだらしなく不快など、とにかくネガティブなものを連想させる。

シニアとヤング、ダサいとイケてるという2つの軸でマトックスを作り、目指すべきおっさん像がどこに該当するのか、その方向性を定めなければならない。世の中には俗に「イケおじ」と呼ばれるイケてるシニアもたくさんいるし、若くてもダサくて「チー牛、陰キャ」などと蔑まれる人もいる。今までの自分はまさに「チー牛、陰キャ」であった。40歳を目前にして、これからはダサいシニアで在ろうと思う。つまりそれは、イケてるヤング、つまり陽キャイケメンの裏返しである。

さらに、先ほど述べたおっさんの具体案であるが、昭和のサラリーマンの様相と重なる部分もたくさんある。昭和とは古くさく遠い昔、ダサくてハラスメントという概念もない野蛮で未発達な時代である。おっさんの姿をイメージすると、それは必然的に昭和のサラリーマンとなるのだろう。

もちろん、昭和といっても、60年以上続いたとても長い歴史があるから、ひとくくりにすることはできない。戦前、戦後の復興、高度経済成長期からバブルの崩壊まで、激動の時代のどの部分、どの要素を抽出するのかを選ばないと、立派なおっさんになれない。

メガネ、髪型、スーツ、バッグ、事務用品などから、昭和60年頃、1980年代半ばくらいの人間とした。ちょうど自分が生まれた頃であり、タイムカプセルの中で当時の空気を保存したまま年をとり、令和の現在に開封されたという設定である。この軸、方向性を忘れず、そしてぶれることのないようにしっかりと固めておきたい。

とはいえ、ファッションなら昭和のままでもよいが、考え方や価値観まで旧態依然としてアップデートされていないのはいただけない。現代では、コンプライアンスが重視され、ハラスメントやポリティカル・コレクトネスについて細心の注意を払うことが求められる。服装や髪型など自分自身がダサくても、言動で他人を不快にさせてはならない。ハラスメント行為、差別的発言は論外だし、見た目についても、フケや寝グセ、シャツのシワ、伸び放題の鼻毛や体臭など、清潔感がないのは許されない。それは絶対に守らなければならない鉄の掟である。

昭和のおっさんといっても、憎悪や嫌悪を抱かせることはなく、今となっては絶滅危惧の珍獣のような奇異の目で見られるもの、小馬鹿にされる嘲笑の対象として在るべきだろう。ギャグやコントみたいな、ふざけておちゃらけた低俗でくだらない道化師、それがこれからの自分の在り方、方向性である。

ギャグやコントであるならば、髪型は地毛を七三分けするのではなくて、いっそ白髪のカツラをかぶろうか。シワやシミ、たるみなどの特殊メイクも施して、理想的で完璧なおっさんを演じよう。

病気休職で1年以上世間から隔離されているのだから、もう誰も君のことなんて覚えてないよ。病気で急激に髪が白くなってシワやシミができ、肌もたるんだ、玉手箱を開けてしまった浦島太郎のように変身しよう。見るからに病んだ姿になって、触れちゃいけない、関わっちゃいけないヤバい奴になろう。

2024年9月22日

第22冊ノートを終えて

連日の残暑もようやくやわらいで、今日は涼しく雨が降る。この夏も酷暑で、朝から夜中までほぼ一日中冷房をつけっぱなしで過ごした。そうでもないともはや夏を生き延びることができない。電気代や冷え性などさほど気にならないことがわかり、これが今やスタンダードである。

ここ数日は、朝に絵を描いたり、文章を書いたりしている。今までは夜中に行っていた創作であるが、人間の体力ややる気など一定量であり、長時間は継続できないのだから、ゴールデンタイムと呼ばれる朝に活動するのが最も効率がよいのは自明の理であり。朝からエンジン全開ではなく、朝だけエンジン全開が正しい姿だ。これも今やスタンダードである。

今までと異なること、やり方や在り方を変えても、慣れてしまえば、それが新しいスタンダードとなる。変わるのも変えるのも、不可能ということはない。

このノートでは、絵画制作についての考察、短歌の推敲、手紙の下書きを行なってきた。途中で新しい万年筆を入手し、インクの色が黒と青の2色体制となった。気分や用途によって使い分けができる。

病気休職をして1年3ヶ月。人事部局に配慮してもらうよう相談もしたが、音沙汰もない。10月異動の内示が明後日にはありそうだが、果たしてどうなることやら。復職をするとしたら、最後の章で書いた昭和のサラリーマンスタイルで勤務することにしよう。ギャグやコントみたいな、低俗でくだらない人生である。どうせ笑われるくらいならいっそ笑わせる人生にしたい。

2024年9月22日 プラス思考でCoya