芥川龍之介『羅生門』

悪とは何だろうか。ふと、考えさせられる作品である。死人の髪の毛を抜くという行為は、善か悪か。大抵の人はその行為を後者と片付けるだろう。確かに、いくら死人とはいえ、髪の毛を抜くという行為は、人間として許されない。しかし、何故それが悪になるのか。

ふと考えてみた。髪の毛を抜くという行為は、日常的に意外とありうるのではないか。白髪を抜いたり、枝毛を抜いたり、まして床屋など、毎日嫌でも他人の髪を切らなければならない。だから、他人の、まして死人の髪の毛を抜くという行為を、いちがいに悪とはいえないのではないのだろうか。

老婆は言う。「この女は、生前にかなり悪い事をしていた。だから、死んでからこうして髪を抜かれても仕方ない」と。また、「鬘の為」とも言う。生前に罪を犯した人間の髪の毛を抜いて何が悪いと。

少々強引だが、確かに理屈は通っている。これを聞いて下人は、勇気を与えられた。それは、今までにない新しい勇気、おそらく反抗する力だろう。今まで主人に対して必死で奉公してきたのに、裏切られ、途方に暮れているところに、自分の悪事を正当化する老婆と出会う。何か、ふっきれたといった感じだ。そして、その力になすがまま、老婆の着物をうばい取ってしまう。

この作品でいいたいのは、「悪事を正当化してよい」ということではなく、「人間は生涯の中で必ず悪事をしてしまう」ということだろう。髪を抜かれた女も、老婆も、下人も、下人を裏切った主人も、どんなに理屈をこねても、結局を悪事をしたということに変わりない。しかし、意図的にそれを行った者もいるが、なりゆきで、仕方なく、不可抗力で悪事を行ってしまった者もいる。いずれにしても、悪事は悪事である。

結局、何が悪いのか。それは、荒れた時代ではないだろうか。