森鷗外『高瀬舟』

この作品には、二つのテーマがある。欲望と安楽死。前者は、喜助が二百文をお上からもらって、それ以上を求めないことから、人間は、欲望を踏み止められる、といった疑問を投げかけている。喜助は、とても貧しい生活をしていた。働けど働けど、金は右から左へ流れてしまう。しかし、人を殺した上に、働かずに食べられて、おまけに遠島の際に、二百文も与えられた。今まで必死に働いてもろくに食べられず、金も持てなかったのに、科を犯せば、タダでメシは出る、金はもらえる。この差は一体何だろう。罪を犯す前の自分が馬鹿らしく見える。喜助は、そんな世の中に失望したのだろう。望みを失ったから、望みを欲しいとは思わない。つまり、欲望を出さない。本当に、世の中は分からないものだと考えさせられる。

そして、もう一つ、欲望をこの作品の縦糸とするならば、横糸となる重要なキーワード、安楽死。そもそも喜助は、弟を殺した罪で高瀬舟に乗せられているのだが、実は弟は自殺を図り、中途半端な結果、苦しみ、もがき、「殺してくれ。助けてくれ」と自分に頼んだと、庄兵衛に告白する。何故その事を奉行に言わなかったのか、筆者はそう思った。しかし、彼が弟を殺したのは紛れもない事実、殺人はいかなる場合でも、許されない。しかし、弟が「殺してくれ」と痛切に頼んだから自分は殺したんだ。弟を楽にしたんだ。しかし殺人は殺人…。喜助の心は、こんな葛藤が幾度となく繰り返されたのだろう。悩みに悩んだ末、彼は遠島に―――。

安楽死、それは人類の大きな問題である。現在でもなおその安楽死の問題は尾を引き続けている。法的には、安楽死は罪とされている。しかし、もしも自分の目の前に苦しみもがいている人がいて、「助けてくれ。このまま生きるのは辛い。いっそ殺してくれ」と言われたら、どうだろう。おそらく、大抵の人が、たとえ罪と分かりながら、殺してしまう、楽にしてしまうだろう。

安楽死―――この問題が解決されれば、喜助の汚名も返上されるだろう。しかし、そうなることは、困難である。しかし、生きている人間が、この問題を解決できなくてどうするのだ。筆者は解決を願いたい。