夏目漱石『坊ちゃん』

無鉄砲で後先考えず、口よりも先に体が動いてしまう―――。そんな江戸っ子魂を持ち、一本木で素直な坊ちゃん。そんな彼は、父母や兄からちっともかわいがってもらえず、木の端のように取り扱われている。今でいう「家庭崩壊」の中にいた彼が、行く先が案じられ、懲役に行かなかったのは何故だろう。それはやはり「坊ちゃん」と呼ばれるほどのまっすぐでよい気性と、もうひとつ大きな存在となった清のおかげであろう。金鍔や紅梅焼をかってやったり、蕎麦湯を持ってきたり、小遣いを与えたりと、まるで坊ちゃんの母親代わりである。父母に育てられるよりも、ただの下女に育てられる方が、まっすぐ素直に育つのだろうか。「シングルマザー」の力は、今も昔も変わらない。

そんな彼も、父の死を機に、兄とそして清と別れなければならなくなった。六百円を。たまたま通りかかった物理学校の学資金に使うなど、相変わらず無鉄砲だが、好奇心は旺盛である。成績は下の方でも、何故か卒業してしまった坊ちゃんは、いきなり、四国の方へ教師をしに行けと言われる。今までのんきに暮らしていた坊ちゃんが、遠く四国へ赴任する。これは彼にとって人生最大の転機であろう。

旅立ちの時は、当然のように清が見送りに来た。清は小さくなるまでずっと汽車を見つめ続ける。ある意味で清は、坊ちゃんを愛していたのではないか。

坊ちゃんがやって来たのは、野蛮な所。田舎である。おまけに、学校には「変人」ともいえる面子。彼は、早速あだ名をつける。その「山嵐」と初めて教場へ入ると、先生と呼ばれて足の裏がむずむずする。江戸っ子は、意外にシャイなのだ。しかし、そんな坊ちゃんに生徒は、天麩羅事件や団子事件、赤手拭いや浴場での水泳でからかう。うちへ帰ると骨董攻めになる。彼も少々へこたれたが、一晩寝ると忘れてしまうなど、あきらめが早い。初めての宿直のバッタ騒動という、卑怯ないたずらにも決して負けず、狸に冷やかされても平気。よっぽどの江戸っ子だ。

そんなある日、野だと赤シャツと共に、見栄で釣りに出掛けた坊ちゃんは、二人が山嵐の悪いうわさをコソコソと話しているのを聞く。素直すぎる坊ちゃんは、これが赤シャツの策略と見抜けず、ケンカを起こしてしまう、このままでは、坊ちゃんは職を辞めようとしていた矢先、バッタ騒動の処分についての会議で、山嵐が言いたいことを「ガツン」と言ってくれた。またまた坊ちゃんは、さっきまでの態度をコロッと変えて、山嵐と仲直りしてしまった。

しかし、野だのワナで下宿を追い出されてしまった坊ちゃん。うらなり君のはからいで、萩の宿に落ち着いた。そこの奥さんに、赤シャツや野だの悪事、山嵐の事を聞き、ますます怒りを奮い立たせる。更に、うらなり君を山奥に転任させて、邪魔者を消してマドンナと結婚しようとする赤シャツの策略に、ついに坊ちゃんは「キレた」。増給はいいから、うらなり君をここに居させろと、殴り込みに行く。しかし、そそかしさがたたって、赤シャツの話術に言いくるめられてしまう。口よりも先に行動してしまった。しかし、結局うらなり君は転任してしまい、ならば送別会の席でひと暴れしようと山嵐と相談する。送別会では、狸、赤シャツが悉くうらなり君をほめたたえ、よくもあんな嘘がつけるものだと呼んでいて気持ち悪くなる。しかし、山嵐がまったく逆のことを言って周囲をわきたたせる。しかし、会の主役であるはずのうらなり君は隅におかれ、みんなで酒を呑み騒ぐ。会というのは、騒ぐための口実にすぎないのだ。

そして、祝勝会でのケンカ。必死に仲裁に入った二人を、悪者として扱う新聞。それも赤シャツの差し金であった。ついにふっきれた二人は、早々に辞表を出した。しかし、ただ辞めたのではない。赤シャツと野だが陰でやっている悪事に裁きを加えるのだ。そして張り込むこと八日、ついに角屋に泊まった二人に、天誅党が成敗する。「貴様等は奸物だから、こうやって天誅を加えるんだ。これに懲りて以来つつしむがいい。いくら言葉巧みに弁解が立っても正義は許さんぞ」この山嵐の台詞は何よりも格好良い。二人は、そのまま船に乗って不浄の地を離れた。逃げたのではない。用がなくなったから帰った、それだけだ。ヒーローは、いつだって目の前から消えてしまう。

坊ちゃんは「人間は弁舌だけでは駄目である。時には行動で、力で解決しなきゃいけない」と言いたいのだろう。「履歴書よりも義理が大切」この言葉は、江戸っ子の坊ちゃんの性格、生き方がよく出ている。なかなかこんな台詞は、学歴社会となっている現代では言えない。ついつい憧れてしまう。こんな風に生きたい。