浦島伝説の比較

日本国民に広く親しまれている浦島太郎の物語。しかし、浦島伝説には、今日我々に知られている浦島太郎の物語とは異なる点がいくつもある。ここでは、今日我々に知られている浦島太郎の物語と、『丹後風土記』、『日本書紀』、『万葉集』、そして『御伽草子』のそれぞれの中に出てくる浦島伝説との相違点を比較してみたい。

まず、主人公である「浦島太郎」は、『丹後風土記』では「筒川の嶼子」あるいは「水江浦の嶼子」となっている。『日本書紀』では「瑞江浦嶋子」と、『万葉集』では「水江の浦島子」とされている。『御伽草子』の中で初めて、「浦島太郎」という名前の主人公が登場する。

次に、「浦島太郎」と出会い、主人公を案内する役目を果たす「亀」にあたるものは、『丹後風土記』では「五色の亀」が「忽ちに婦人とな」った女性である。『日本書紀』では「大亀」が「便に女に化為」た女性である。また、『万葉集』では亀は全く登場せずに「海神の神の娘子」が直接主人公を案内している。『御伽草子』では主人公に釣り上げられて助けられた亀が、後に「うつくしき女房」に化けて案内している。

さらに、「浦島太郎」が連れて行かれた場所、すなわち「籠宮城」は、『丹後風土記』では「天上仙家」あるいは「蓬山」という名称で呼ばれている。『日本書紀』では「蓬莱山」と、『万葉集』では「常世」や「神の宮」とされている。『御伽草子』では、「籠宮城」とはっきり呼ばれている。

また、「籠宮城」で「浦島太郎」を迎え入れる「乙姫」は、『丹後風土記』では「神女」あるいは「亀比売」となっている。『日本書紀』では「女」と記述されているだけであり、『万葉集』では「神の娘子」とされている。『御伽草子』ではただたんに「女房」となっている。

「浦島太郎」が別れ際に「乙姫」から渡される「玉手箱」にあたるものは、『丹後風土記』と『万葉集』では共に「玉匣」となっている。しかし『日本書紀』では、物語が、主人公と女性が仙境を見て回る場面で終わっていて、それ以降の話は記述されていない。すなわち「浦島太郎」が「乙姫」と「竜宮城」にいる場面で話が途切れているので、「玉手箱」にあたるものが登場していない。『御伽草子』の和歌の中では「玉手箱」と詠まれている。

そして、「玉手箱」を開けてしまった「浦島太郎」は、煙に包まれて一瞬で年老いてしまい、物語は結末を迎える。『丹後風土記』では、玉匣を開けてしまった「嶼子」の肉体は「風雲にしたがひて」、「蒼天に翩飛」してしまう。主人公は「首を廻らして佇」み「涙に咽びて徘徊」しながら、「神女」にむかって歌を詠む。「神女」は「遙に芳音を飛ばし」て歌を返して、物語は終わる。『万葉集』では、玉匣を開けると「白雲」が出てくる。すると「浦島子」は「立ち走り 叫び袖振り こいまろび 足ずりしつつ たちまちに 心消失せぬ 若かりし 肌も皺みぬ 黒かりし 髪も白けぬ」と、一瞬にして年老いてしまう。そして「息さへ絶えて 後つひに 命しにける」と、意識を失い、最後には死んでしまう。主人公が年老いるだけでなく、死んでしまうという結末は『万葉集』だけである。『御伽草子』では、「浦島太郎」が「かたみの箱(玉手箱)」を開けると、中から「紫の雲」が三筋立ち上ってくる。そして「たちまちに変りは」てて年老いてしまう。亀が玉手箱の中に浦島太郎の年齢を閉じ込めておいて、それを開封してしまったので年老いてしまったというのである。さらにこの後浦島太郎は、鶴になって飛び立ち、亀と契りを結び、「浦島の明神」となって「衆生済度」をするようになったとある。この結末も、『御伽草子』の中だけに見られる特殊なものである。

以上のように、浦島伝説と今日我々に知られている浦島太郎の物語とでは、さまざまな相違点がある。しかしまたその一方で、いくつかの共通点も見られる。

一つは、「天上仙家」、「常世」、「神の宮」とあるように、「籠宮城」を時間の流れがとてもゆるやかな超現実の世界、この世ではない神の国としている点である。それに関連して「乙姫」も「神女」、「神の娘子」と呼ばれていて、亀に化けたり、年齢を箱の中に閉じ込めたり、人を一瞬で年老いさせるといった、超人的な力を持っている。

もう一つは、どの伝説でも、「浦島太郎」が「籠宮城」で過ごしていた時間が3年、そしてこの世で実際に流れた時間が300年となっている点である。どの伝説でも、この部分だけは共通している。

浦島伝説、そして浦島太郎の物語は、1200年以上前から語られてきた物語である。20世紀に発表された特殊相対性理論によって、時間の進み方が遅くなるということが理論上はあり得ると証明された。浦島伝説の中の出来事は、非科学的ではなく、むしろ自然科学の発見を1200年以上前から予言していた不思議な伝説だといえるだろう。