特別活動論レポート

1.子どもにとって現代とはどういう時代か

子どもにとって現代とは息苦しく窮屈な時代である。子どもをとりまく環境は過酷なものである。学校では、校内暴力、いじめ、不登校、学級崩壊、ゆとり教育と学力低下、激化する受験戦争など。家庭では、家庭内暴力、虐待、希薄な家族関係、親のリストラによる経済的困難など。そして社会では、出口の見えない長期の不景気、治安の悪化、学歴偏重、勝ち組と負け組みへの二極化、インターネットや携帯電話などの情報技術の発達による希薄な人間関係など。

息苦しく窮屈な現代という時代を生きる子どもには、学校にも、家庭にも、社会にも、心を休められる場所がない。勉強とは、学習とは、あるいは教育とは、心を休められる環境でなければ、決して満足のいくものはできない。息苦しく窮屈な環境での勉強、学習、教育は苦痛なだけであり、その結果ちょっとしたことですぐにカッとなって、自分を抑えられずに暴力的になってしまう、いわゆるキレル子どもになってしまう。

この子どもにとって息苦しく窮屈な現代という時代を、「競争」の時代を、心を休められる「共同」「協力」の時代にしていくことが必要である。

2.特別活動論とは何か 子どもにとっての重要性

教育には「学校教育」と「社会教育」の二つがある。しかし日本では長らく、学校教育が教育の中心とされてきていた。社会教育が注目されるようになったのは戦後のことである。そしてこの「学校教育」と「社会教育」の二つは、それぞれ独立して行われてきた。しかし日進月歩の現代に対応するために、「学校教育」と「社会教育」の二つを併合させた「生涯教育」という考え方が、近年になって生まれてきた。

学校教育は、あるいはそのカリキュラムは、大きく二つのもの分けられる。国語、数学などの各教科を学ぶ「教科教育」(教科カリキュラム)と、小学校の生活科や道徳、総合学習など、実践的なことを経験によって学ぶ「教科外教育」(経験カリキュラム)の二つである。そして特別活動は、その「教科外教育」に位置づけられている。特別活動の具体的な内容は、1.学級活動、クラブ活動などの「児童活動」、2.遠足、修学旅行、文化祭、体育祭などの「学校行事」、3.ホームルームなどの「学級指導」の三つである。

子どもにとっての特別活動の重要性とは、子どもによる自主的、自治的な活動によって、人と人との関係、主体性、そして社会の仕組みや民主主義のルールを学ぶということである。これらは、社会に出ていくうえで必ず身につけなければならないスキルである。そのスキルを、学校にいるうちに学ぶこと、すなわち社会に出ていくための準備をすることこそが、特別活動の目的であり、役割である。

社会に出ていくための準備ということで、特別活動は学校教育の中でも社会教育に近い位置にある。そしてその信念は「為すことによって学ぶ」というものである。

3.自分自身の特別活動の思い出

自分は中学生の時、生徒会の書記をやっていた。特別活動の理想からいえば、生徒会は子どもによる自主的な運営の自治会であるべきだが、現実には、教員の指示によって動く駒でしかなかったような気がする。生徒総会や、生徒会主催の行事にも、教員の許可や承認が必要であったし、教員の思うように行われていた。

生徒会の役員も、本来なら自主的にやりたい者が立候補をして選出されるべきであるのに、実際には、教員のいうことをよく聞くいわゆる「優等生」が、「推薦」という形で教員から主に選出されていた。すなわち、子どもによる自主的、自治的な生徒会ではなく、教員の思惑によって作られた傀儡政権であったのだ。

そもそも、自分がはじめは会長に立候補しようとしても、もう一人の立候補者がPTA会長の子どもであったために、学年主任と教務主任の圧力によって、自分は会長から書記に立候補する役職を変えさせられたのである。これを政治的干渉と呼ばずして何と呼ぶのであろうか。結局会長は、対抗する候補者がいないまま、信任投票ですんなりとPTA会長の子どもに決まり、書記である自分は、激しい選挙戦の末に辛くも当選したのである。PTA会長の子どもが生徒会長であるということには、特別活動の意義や目的は何ら見出せないような気がする。

そのような生徒会ではあったが、自分はそこで、社会の仕組みや民主主義のルール、人をまとめて引っぱっていくことの難しさなど、多くのことを学べた。それは、高校、大学と進学し、少しずつ社会的責任を負い、少しずつ社会と触れて、社会に出ていく準備として貴重な経験となった。生徒会自体は、とても特別活動の理想にかなったものではなかったが、自分としては、人と人との関係、自主性などを学べたと思う。