封じ込められていたソ連―冷戦構図の見直し―

はじめに

冷戦は、アメリカを中心とする西側資本主義陣営と、ソ連を中心とする東側社会主義陣営との対立である。今日、冷戦の構図を説明する際には、資本主義陣営を左側、すなわち西側に置き、社会主義陣営を右側に置き、東西の対立を矢印で結ぶというのが一般的な手法である。特にヨーロッパに焦点を当てると、バルト海からアドリア海に、いわゆる「鉄のカーテン」と呼ばれる境界線を引き、そしてベルリンの壁によってドイツを西と東に分けて、冷戦の対立を認識するというものである。

この構図は東西という陣営を、概念的にそして位置的に一目で認識できるものであり、世界を分割する両陣営の対立を理解するには適切なものである。アメリカとソ連という、力の均衡する超大国が真っ向から対峙し、睨み合う緊張状態というものが、一般的な冷戦の構図というものだろう。

しかし、冷戦構図の認識は、果たしてそれだけなのだろうか。ここでは、冷戦構図を見直してみることで、冷戦がソ連に与えた影響を考えてみることにする。冷戦の過程を辿り、東西対立の力関係を見ることで、ソ連という国家について考察していく次第である。

1.冷戦の成立過程

(1)ヤルタ会談と戦後処理

冷戦の発端は、第2次世界大戦の末、1945年2月のヤルタ会談から始まる。戦後処理を巡るこの会談で、米ソ両国の対立が浮き彫りとなった。

戦後、ヨーロッパの政策を巡って、資本主義国家のアメリカと社会主義国家のソ連との対立は決定的になった。

(2)トルーマンドクトリンとマーシャルプラン

1947年3月、アメリカのトルーマン大統領が、ソ連を封じ込めるための「封じ込め政策」(トルーマンドクトリン)を宣言した。さらに同年6月には、アメリカのマーシャル国務長官が荒廃したヨーロッパの経済を復興させ、ギリシア、トルコを中心にヨーロッパの共産化を防ぐためにヨーロッパ経済復興援助計画(マーシャルプラン)を発表した。

(3)コミンフォルムとCOMECON

ソ連や東ヨーロッパはアメリカの封じ込め政策に対抗するために1947年9月に共産党情報局(コミンフォルム)を組織し、1949年1月には東欧経済相互援助会議(COMECON)を創設した。資本主義国家の西側陣営と社会主義国家の東側陣営との対立は不可避的になり、冷戦は本格的にスタートした。

2.西側陣営の軍事同盟

図版資料「冷戦における東西両陣営の軍事同盟の図」を見てみよう。これは、冷戦の同盟体制を、北極海を中心とした地図で示したものである。この図を見ると、ソ連を中心とする東側陣営は、西側陣営に取り囲まれていることが分かる。トルーマンの政策通り、ソ連は西側陣営に徹底的に封じ込められていたのである。

(1)北大西洋条約機構(NATO)

西ヨーロッパとアメリカ、カナダなどの北大西洋地域においては、1948年の西ヨーロッパ連合条約から発展して、1949年に北大西洋条約機構(NATO)による軍事同盟が結ばれている。加盟したのは、アメリカ、イギリス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、ノルウェー、デンマーク、アイスランド、ポルトガル、イタリア、フランス、カナダの12カ国である。のちにトルコ、ギリシア、西ドイツ、スペインも加盟した。

(2)米州機構(OAS)

ラテンアメリカでは、アメリカの強い影響下のもと、1948年に米州機構(OAS)が結成されている。もっともラテンアメリカでは、1959年のキューバ革命などによって次第に社会主義勢力が台頭するようになった。それでもチリやニカラグアなどのように、アメリカの支援のもとで軍事独裁政権をとった国も数多くある。

(3)バグダード条約機構(METO)

中東では、1955年2月のイラク‐トルコ相互防衛条約から発展して、同年11月にイギリス、イラン、パキスタンを加えたバグダード条約機構(METO)による反共軍事同盟が結ばれた。トルコは、ギリシアと共に、ヨーロッパにおける反共の重要な拠点としてアメリカは莫大な経済支援をした国である。METOは、イラク革命によるイラクの脱退により、1959年に中央条約機構(CENTO)として再編成された。いずれにせよ、トルコに重点を置いた中東も、西側陣営としてアメリカの傘下に入り、ソ連を包囲していたのである。

(4)太平洋安全保障条約(ANZUS)

オセアニア諸国については、1951年にアメリカ、オーストラリア、ニュージーランドの間で太平洋安全保障条約(ANZUS)が結ばれた。

(5)東南アジア条約機構(SEATO)

東南アジアにおいては、ANZUSの3国に加えて、イギリス、フランス、フィリピン、タイ、パキスタンの8カ国で1954年に東南アジア条約機構(SEATO)が成立した。

(6)日米安全保障条約

 日本では、1951年に日米安全保障条約が結ばれている。日本においては、アメリカが単独で同盟条約を結んでおり、ソ連のすぐ近くに位置している日本が、反共のためにはどれだけ重要な拠点であったかが分かるものである。

このように、西側陣営の軍事同盟を見ると、ソ連は西ヨーロッパ、北大西洋のNATO、ラテンアメリカのOAS、中東のMETOあるいはCENTO、オセアニアのANZUS、東南アジアのSEATO、そして日本の日米安全保障条約というように、インドやアフリカ諸国を除く全方位から囲まれていたことが分かる。

3.東側陣営の軍事同盟

西側陣営の全方位的な軍事同盟に対して、ソ連の同盟は脆弱なものに見える。

(1)ワルシャワ条約機構

1955年には、NATOに対抗して東ヨーロッパでワルシャワ条約機構を結成した。加盟したのは、ソ連、ブルガリア、ハンガリー、東ドイツ、ポーランド、ルーマニア、チェコスロヴァキア、アルバニアの8カ国である。なお後述するが、アルバニアは1968年に脱退している。

(2)中ソ友好同盟相互援助条約

ソ連に次ぐもう一つの社会主義大国である中国とは、1950年に中ソ友好同盟相互援助条約を締結している。

しかし、主な軍事同盟はこの2つのみであり、西側陣営のように太平洋、大西洋を越えた地球規模の全方位的な軍事同盟は結べなかった。東側陣営は、同盟国の「飛び地」を設けることができず、一箇所に集中してしまったのである。

こうして見ると、冷戦の構図の認識は変わってくる。冷戦は、西側陣営と東側陣営が真っ向から睨み合う対立ではなく、実際は西側陣営が東側陣営を囲い込むという構図だったのである。そして東西対立の境界線が、朝鮮半島であり、ヴェトナムであり、ベルリンであったのである。
 冷戦の構図は、長方形の真ん中を直線で区切って2つの地域に分けた対立ではなく、大小2つの同心円によって区切られた地域の対立であったのである。このような構図から見えてくるのは、「孤立」というものではないだろうか。実際、冷戦において東側陣営、特にソ連は国際的に非常に孤立した存在であった。

4.多極化による東側陣営内の対立

1960年代、東ヨーロッパで多極化が進むと、ソ連は同盟国である東ヨーロッパ諸国の民主化、自由化運動を、軍事介入によってことごとく抑圧した。

(1)ポーランド反ソ暴動

1956年6月に、ポーランドのポズニナで、生活苦の改善や抑圧からの自由を求めて、労働者や学生による暴動が起きた。東ヨーロッパの反ソ暴動の先駆けとなった。ポーランド政府は自軍でこの暴動を鎮圧したため、ソ連による軍事介入は免れたが、ゴムウカ第一書記は自由化路線を採ることになった。

(2)ハンガリー反ソ暴動

1956年10月にはハンガリーの首都ブダペストで、反ソ暴動が起きた。ソ連はこの暴動には軍事介入をして鎮圧し、動乱の指導者であるナジ首相を処刑した。

(3)プラハの春

1968年には、チェコスロヴァキアで「プラハの春」と呼ばれる大規模な自由化運動が起きた。この運動は拡大し、ドプチェク書記長による民主化、自由化が一気に進んだ。しかしソ連は、この運動をまたしても力で抑え込んだ。運動の中心人物であったドプチェクを逮捕し、全土を占領した。この軍事介入によって、チェコスロヴァキアの民主化、自由化運動は一気に下火となってしまった。

またソ連に対して批判的、反体制的な姿勢をとり、断交や軍事同盟の脱退などでソ連から離れていった国もある。

(4)ルーマニアの離反

ルーマニアは1960年代前半からワルシャワ条約機構やCOMECONなどにおけるソ連の体制に批判的になり、ソ連と距離をおいた外交を展開するようになった。1968年のチェコスロヴァキアへの軍事介入にも参加していない。

(5)アルバニアのワルシャワ条約機構脱退 

中ソ論争におけるソ連の体制に批判的であったアルバニアは、1961年ソ連と断交状態になり、1968年にはワルシャワ条約機構からも脱退している。

このように、多くの東ヨーロッパ諸国は、ソ連を中心とする社会主義体制に批判的であり、多極化により反ソ暴動や民主化、自由化運動、断交、軍事同盟の脱退などが相次いで起きている。同盟諸国からこのような反体制的な運動が起きたということは、ソ連が東側陣営の中でも孤立していたと言わざるをえない。そのような反体制運動を軍事介入による力で押さえつけたので、孤立と混迷はますます深まるばかりであった。

ソ連は、西側陣営に取り囲まれた対立と、自陣内での反体制運動という二方面からの勢力によって、国際的に孤立していたのである。

5.もう一つの対立―中ソ論争―

ソ連には西側陣営との対立、自陣内での反動勢力の他に、もう一つ孤立する要素があった。最大の同盟国である中国との対立、中ソ論争である。

(1)「雪どけ」による米ソ協調

1955年のアメリカ、イギリス、フランス、ソ連によるジュネーヴでの4巨頭会談や、フルシチョフによるスターリン批判、キャンプデーヴィッドでのアイゼンハウアーとの会談などの対米平和共存政策により、アメリカとソ連による対立は「雪どけ」と呼ばれる緊張緩和状態になった。

(2)中ソ対立

しかしこのような米ソ協調は、ソ連と中国との対立を深めることになった。

ソ連の平和共存の政策転換に対して、対米対立を主張する中国は反論をした。ソ連は技術援助や経済援助の打ち切りを行い、両者の関係は悪化するばかりであった。1963年公開論争が開始されると、対立はますます深まり、1969年にはついに珍宝島で軍事衝突が起きるまでになった。

このようにソ連は、東側陣営の社会主義大国として同盟を結んでいた中国とも対立するようになった。最大の同盟国との対立は、国際社会におけるソ連の孤立を決定的なものにしたと言える。

(3)中ソ両国家内における思想弾圧

ソ連、中国はどちらも、論争の後に国内で大規模な思想弾圧を行っている。ソ連では、ソルジェニーツィンやサハロフなどの反体制知識人が数多く抑圧された。そして中国では、プロレタリア文化大革命によって数多くの知識人が追放され、多数の死者を出した。この思想弾圧で、両国とも国内は混乱に陥った。中ソ論争は、最終的には両国の国内を混乱させる結果を招いたのである。

6.超大国の疲弊

アメリカとソ連の超大国による睨み合いの冷戦において、両国は軍事費増大などで次第に疲弊していった。

(1)ヴェトナム戦争によるアメリカの疲弊

アメリカは、ヴェトナム戦争で苦しめられていた。泥沼化する戦局で財政は圧迫され、国内外からの反戦運動で国際的に孤立していた。アメリカは、ソ連との睨み合いを緩めることなく、ヴェトナムでの戦いも続けなければならなかった。西側陣営の中心として、ソ連を囲い込まなければならないアメリカもまた、ヴェトナム戦争によって孤立する存在となっていたのである。

(2)軍事費膨張によるソ連の疲弊

一方のソ連もまた、アメリカに圧倒されないように、勢力を張り続けなければならなかった。アメリカに対抗するための開発競争は、軍事開発、核開発、そして宇宙科学開発まで発展していった。しかしそのような開発は、莫大な軍事費増大を招き、また非現実的な計画経済や集団農業は、国内の負担を増やすばかりであった。特に、1964年にそれまで対米協調政策をとってきたフルシチョフが解任され、代わってブレジネフが第一書記に就任してからは、軍備拡大は大幅に進められた。

このように、1960年代半ばから1970年代初頭にかけて、両国とも力にかげりが見えるようになってきた。また1962年のキューバ危機を筆頭とする核兵器による危機の恐怖が、国際的な批判を受けることとなった。

7.デタント

囲い込んでいたアメリカと、囲い込まれていたソ連の両国の睨み合いが、持久戦になり長期化するにつれて、両国とも疲弊するようになった。外側と内側の押し合う力が均衡し、限界にまで達した際にとられた手段が、対話による譲歩であった。1970年代初頭に始まった、「デタント」と呼ばれる両国間の緊張緩和の進展は、冷戦の構図に変化をもたらすものであった。

(1)米ソ間による緊張緩和

1972年にアメリカとソ連の間で、第1次戦略兵器制限交渉(SALT I)と迎撃ミサイル制限条約(ABM条約)が調印された。この2つは、両国の大きな歩み寄りといえる。翌1973年には核戦争防止協定も結ばれた。

外側と内側の力の押し合いが限界に達し、対話による譲歩で力を緩めることによって、お互いの勢力が少しずつではあるが融和していくような流れになった。

(2)ヨーロッパにおける緊張緩和

両国家間の融和は、ヨーロッパ諸国にも影響を与えた。

西ドイツでは1969年にブラント首相が就任すると、東側陣営との和解政策をとるようになった。ソ連とは1970年に西独-ソ連武力不行使条約を締結した。ポーランドとも同年に国交を正常化し、国境をオーデル=ナイセ線とすることを確認した。1972年には両国を承認し合う東西ドイツ基本条約を結び、翌1973年には両国とも国際連合に加盟した。

また、1975年にはヘルシンキで全欧安全保障協力会議(CSCE)が開かれた。この会議には、アルバニアを除く全ヨーロッパ諸国と、アメリカ、カナダが参加した。

アメリカとソ連の緊張緩和、そして東西ヨーロッパの融合は、この会議で出されたヘルシンキ宣言によって一定の成果を見せたと言ってよいだろう

8.冷戦による東西対立の象徴的事件

緊張緩和を見せていたアメリカとソ連であったが、1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻すると、融和は一時的に停滞し、ソ連は再び国際社会から孤立することとなる。

(1)ソ連のアフガニスタン侵攻 

ソ連は、親ソ政権を支え、イスラム革命の流れが及ぶのを阻止するために、アフガニスタンに侵攻した。ソ連はゲリラ勢力の激しい抵抗にあい、戦局は泥沼化した。

(2)両陣営によるオリンピックのボイコット

ソ連の軍事侵攻は、翌1980年のモスクワオリンピックでの西側陣営諸国のボイコットという事態を招いた。そしてソ連を中心とする東側陣営は、報復措置として1984年のロサンゼルスオリンピックをボイコットした。

1970年代のデタントで見えてきた融和の風潮を、さらに発展させるためには最適な機会であった2つのオリンピックで、東西の対立は再び克明になってしまったのである。

本来ならば政治とスポーツは別のものであるべきだが、これはスポーツが政治的に利用され、巻き込まれた典型的な例である。そして、実際には戦火を交えず睨み合いが続いた冷戦において、政治以外の、すなわち戦争以外の場面での対立であるこの2つのオリンピックのボイコットは、東西冷戦を象徴的に語るものと言えるだろう。

9.米ソ軍縮交渉

ソ連のアフガニスタン侵攻に端を発する2つのオリンピックのボイコットで、停滞を見せた感のある米ソ両国家間の軍縮交渉ではあるが、1980年代も進められてはいたのである。

1979年に調印された第2次戦略兵器制限交渉(SALT Ⅱ)は、ソ連のアフガニスタン侵攻によってアメリカが批准しなかったために途絶えてしまったが、それでも小さな進歩はあったと言えよう。

1982年には戦略兵器削減交渉(START)が始まり、1985年にはアメリカのレーガン大統領とソ連のゴルバチョフ書記長との間で米ソ首脳会談が開かれた。交渉の成果は、1987年に調印された中距離核兵器(INF)全廃条約となって結実した。

このように、1970年代のデタントから発生した米ソ軍縮の交渉は、1980年代においても続けられていたのである。

10.冷戦の終結とソ連崩壊

西側陣営に囲い込まれ、アメリカと限界に達するまで力の押し合いをし、そして緊張緩和を見せていたソ連は、1991年に崩壊する。

ソ連崩壊までには、いくつかの要素が挙げられる。

(1)ポーランドの自主管理労組「連帯」

第一には、1980年にポーランドで組織された自主管理労組「連帯」であった。ワレサを指導者とするこの組織は、全国規模に拡大し改革運動を広げた。ヤルゼルスキ首相による戒厳令によって一時的に運動は抑圧されたが、「連帯」の成立は東ヨーロッパの民主化、自由化運動の先駆けとなった。

(2)ゴルバチョフ書記長の就任

次に、1985年のゴルバチョフ書記長の就任が挙げられる。ソ連の社会主義政策に行き詰まりを感じたゴルバチョフは、グラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(改革)を掲げ、市場経済への移行や「新思考外交」などの大胆な諸改革を行った。アメリカのレーガン大統領との米ソ首脳会談や中距離核兵器(INF)全廃条約などで成果を見せ、1988年には泥沼化していたアフガニスタンから軍を撤退させた。

(3)チェルノブイリ原発事故

さらに、1986年に起きたチェルノブイリでの原発事故も見逃せない大きな要因の一つである。史上最悪とも言われたこの原発事故によって、ソ連の科学技術の欠陥や、情報管理の杜撰さなどが露呈された。またこの事故は、ソ連の社会主義体制の限界を象徴するものでもあった。

(4)反ゴルバチョフクーデターの失敗と同盟国の離脱

以上のようないくつかの要素に加えて、ソ連崩壊の直接的な要因となったのは、1991年に起きた、社会主義体制の維持を目論んだ保守派による反ゴルバチョフ・クーデターであった。民衆の抵抗によって短期間で失敗に終ったこのクーデターの後、バルト三国やウクライナ、アゼルバイジャンなどほとんどの共和国が離脱を宣言した。

内側からの強烈な圧力によって、チェルノブイリが爆発したように、ソ連もまた崩壊していったのである。そして、東西冷戦の対立の象徴であったベルリンの壁も開放されることになる。

結論 

ソ連の崩壊とベルリンの壁の開放は、冷戦の終わりを意味する。しかしこれら3つの出来事が起きた時期にはそれぞれ微妙に差があって、その順番が非常に重要になってくるのである。
ベルリンの壁は1989年の11月に開放された。社会主義の行き詰まりによって国民の不満は募り、またゴルバチョフによるソ連の改革も後押しして、東ドイツのホネカー書記長が退陣したことがきっかけであった。

ベルリンの壁開放直後の1989年12月に、ブッシュ、ゴルバチョフ両首脳によるマルタ会談によって、冷戦の終結が宣言された。ヤルタ会談に端を発する、40年以上に及ぶ東西両陣営の睨み合い、超大国同士による拮抗した力の押し合いは、マルタ会談によって終結したのである。

そして冷戦終結が宣言された2年後の1991年8月の反ゴルバチョフ・クーデター失敗の直後に、ソ連共産党の解散が宣言された。そして同年12月の独立国家共同体(CIS)の結成により、ソ連は名実ともに崩壊したのである。

ベルリンの壁の開放、マルタ会談による冷戦終結の宣言、そしてソ連の崩壊という順番に注目したい。

社会主義体制の行き詰まりによってベルリンの壁が開放され、そのことが象徴となって冷戦終結が宣言され、そしてソ連は崩壊したのである。

このことは何を意味しているのだろうか。

ベルリンの壁の開放という自陣内の出来事によって、ソ連では内側からの力が強まったと言える。そして外側からの圧力であった西側陣営との睨み合い、すなわち冷戦による対立が終結してしまい、力の押し合いがなくなり崩壊したのである。ソ連という国は、内側からの圧力と、外側からの圧力の絶妙なバランスによって成り立っていたということである。西側陣営に囲い込まれ、外側から圧力をかけられてもすぐに消滅しなかったのは、内側から同等の圧力があったからである。冷戦なくしては、ソ連という国は成立しえなかったとも言えるだろう。

冷戦が戦後ソ連に与えた影響は、囲い込みによる国際社会における孤立と、それに伴う超大国の成立である。西側陣営の諸国家に囲まれたソ連は、外側からの力に対抗するための力を持つようになった。ソ連は囲い込まれたことにより、孤立したことにより独自の力を持ち、超大国となりえたのではないだろうか。

冷戦が終結し、外側からの圧力がなくなり、ソ連は内側からの圧力を押さえつけることができなくなり、崩壊した。冷戦が、ソ連という国家を維持し続けたということになる。ソ連は、東西対立による冷戦という力の均衡によって成り立っていたのであり、冷戦の終結によってソ連が崩壊したのは、半ば必然的なことであった。

参考文献

  • ジョン・ルイス・ギャディス 著 赤木完爾、齊藤祐介 訳『歴史としての冷戦―力と平和の追求』慶應義塾大学出版会 2006年刊
  • 岩波講座現代6『冷戦―政治的考察』岩波書店 1963年刊
  • 松戸清裕 著 世界史リブレット92『歴史のなかのソ連』山川出版社 2005年刊
  • 田口晃 著『ヨーロッパ政治史―冷戦からEUへ』放送大学教育振興会 2001年刊
  • 西川吉光 著『現代国際関係史Ⅰ―冷戦の起源と二極世界の形成』晃洋書房 1998刊