表現としての個人文字

表現というものは、特に小説などの場合においては、作者自身の創造力というものが重要になってくるではないだろうか。

創造的な表現をするためには、大きな観点から考えると、作品のテーマや、文章の構造など壮大なものになる。小さな観点で考えると、倒置法や反復法、体言止めなどの文章の組み立て方というものが挙げられる。より細かい観点で考えると、比喩をはじめとする修辞法というものになってくる。

そして表現を独特の、創造的なものにしようと突き詰めると、最終的には、自分で文字を造り出すということになってくるのではないだろうか。個人文字というものは、創造的な表現を追求し尽くした結果到達した究極の形であるといえるのではないだろうか。

『日本の漢字』pp.170~174に出てくる例で考えてみると、宮沢賢治と吉本隆明がその典型的なものとして挙げられる。

宮沢賢治の場合は、「鏡」という字を四つ重ねることによって、意味的に、そして視覚的にも独特な表現をしようとしている。詩は特に、少ない言葉でいかに創造的な表現をするかが重要になってくる。そのため、散文や口語では滅多に使わないような独特の言い回しや、比喩などが頻繁に用いられる。個人字というものも、そのような詩の表現の一部だと考えることができるのではないだろうか。宮沢賢治は、「はんのき アルヌス ランダー」に続く表現として最も適切なものは何かを考えた時に、この字を思いついたのではないだろうか。

吉本隆明の場合も、「くろ」という意味の「黑」と「玄」の二つの漢字を一つにまとめることで、「くろ」を強調しようとする独特の表現と考えられる。これは、例えば「青々としている」のように、意味を強調したい場合に「々」を使って字を二つ重ねたり、「おもう」という意味の「思」と「想」という字を二つ合わせて「思想」という熟語を造ることと似ている。意味を強調するために字を二つ用いる表現を、さらに突き詰めると、二つの字を合わせて一つの字を造り出すという段階に入るのではないだろうか。

個人文字というものは、創造的な表現の究極の形である。人が手書きで文字を書く時に、表現のために自分で文字を造り出すということは、大いにありえることである。活字や文字コードなどによって、字の基準が定められている現代では、文字による表現の幅が、ある意味では狭まっていると言えるのではないだろうか。もちろん、学校のテストや小論文、公的な文章などで個人文字があっては、意味の取り違えや誤解などの虞が出てくる。しかし、文芸というもの、殊に詩という分野に限定して考えてみると、個人文字は表現の一部として、ある程度は認められてもよいのではないだろうか。辞書に載っていない、独特の単語や、文法的には間違っている言い回しなどと共に、個人文字もまた、表現の究極の形として考えるべきである。