T.S.エリオットの「批評」について

はじめに

批評とは何であろうか。それは芸術という行為とは異なり、何かを創造するものではないように思われる。すなわち、印象や感情などの主観が入り込むべきものではないものであろう。しかしながら、そのようなものを一切排除した批評というものはありえるのだろうか。このような問いについては、どちらか一方の考え方を見るだけでは不十分である。双方からの考え方を比較、分析していく必要がある。

ここでは、T.S.エリオットの著作から、彼の批評に対する考え方を見ていくことにする。エリオットは、詩人、劇作家として数多くの芸術作品を創造した芸術家であるとともに、文学や思想などに関する数多くの論考を書いた批評家でもある。自分の作品について批評がなされ、そして自身もまた批評をするという双方の立場にあった稀有な人物であり、批評というものを考えるにあたって、彼の考え方を見ていくのは非常に有益なことである。

エリオットの著作の中から、「批評家の仕事」(The Function of Criticism )、「完全な批評家」(The Perfect Critic )、「伝統と個人的な才能」(Tradition and the Individual Talent )の三篇を選び、彼の批評に対する考え方を見て、それについての考察を加えていくことにする。

「批評家の仕事」(The Function of Criticism )

果たして批評とは何であろうか。エリオットは「批評家の仕事」の中で批評のことを「常に或る目的の下になされなければならなくて、その目的は大体の所、芸術作品の解明と、趣味の是正ということにある[ 吉田健一 訳『エリオット選集 第1巻』、彌生書房、1967年、p.117。]」と述べている。すなわち批評とは、ある芸術作品がどのようなものであるかを明らかにする試みのことだというのである。批評に対するこのような考え方は的確で納得のいくものであるが、どこか不足するものがあるようにも思われる。

確かに、批評とはある芸術作品を理解し、明らかにしようとする試みに他ならないのではあるが、そこからさらに一歩踏み込んで、その芸術作品の優劣を指摘し、それが文学的な価値に照らし合わせて有益かどうかの判断を下すことこそが批評の本質なのではないだろうかという意見が出てくるであろう。しかし実際には、芸術作品の優劣し、それが文学的な価値に照らし合わせて有益かどうかの判断を下す基準となるものは、何もないのである。エリオットも指摘しているように「自分の判断が間違っていないことを保証するものは何もないので、ここでも我々は窮地に追い込まれる[ 同書、p.130。]」のである。したがって、批評の本質とは作品の解明であって、その優劣や有益かどうかの判断までも押し付けるべきではないのである。

そして作品の解明というのは、結局のところその作品の中で述べられている「事実」を細かく指摘していくということになる。エリオットが述べているように「「解釈」と呼ばれている種類の批評は(中略)それが実際は解釈ではなくて、単に読者がそれを読まなかったならば見逃したかも知れない幾つかの事実を教えるものでなければ、正当なものとは見做せない[ 吉田健一 訳『エリオット選集 第1巻』、彌生書房、1967年、p.130。]」のである。多くの読者が見過ごしてしまうような事実を指摘することによって、詳しいことが明らかになり、その作品についてより深く理解することができるのである。事実を指摘する方法は主に二つある。それは「比較」と「分析」である。これらを効果的に用いることによって、良い批評というものがなされるのである。

エリオットの考えるところの批評とは、芸術作品の優劣や、それが有益かどうかといった判断を押し付けるものではなく、比較と分析という方法を用いながら細かい事実を指摘していくことで、その作品を解明していくことなのである。その結果「或る芸術作品に関する最も低級な事実を提供してくれる本なり、論文なり、新聞の記事なりの方が、勿体振った批評的なジャアナリズムの大部分よりも遙かにいい仕事である[ 同書、p.131。]」という、一見すると逆説的な考え方が出てくるのである。

「完全な批評家」(The Perfect Critic )

エリオットの考える批評がどのようなものであるのかは分かった。それでは、批評と創造との関係はどうであろうか。すなわち、創造のためには必要不可欠な印象や感情などの主観的なものが、批評でも必要なのか、必要だとすればそれらはどのように作用するのかということを考えていくことにする。

「完全な批評家」の中で、エリオットは「印象批評」というものを取り上げている。それは「われわれよりも鋭敏な心に映じた、そしてわれわれ以上に豊富かつ洗練された印象の忠実な記録を、感光板の如く示してくれる[ 松原正 訳『エリオット選集 第1巻』、彌生書房、1967年、p.97。]」ものである。ここから分かるように、エリオットは批評に印象や感情などの主観を持ち込むことを否定してはいない。創造と同様に、印象や感情などの主観は批評にとっても必要なものなのである。なぜならば、「諸君が決して純粋感情のままにとどまっていない(中略)印象を言葉であらわそうとするその瞬間、諸君は「法則化」せんものと分析したり組立てたりしはじめるか、それともなにか別のものを創作しはじめるかする[ 同書、p.99~p.100。]」からである。すなわち批評も創造も、共に純粋感情による心の所作の産物なのである。どちらも、印象や感情などの主観によって、心が動いた結果生まれるのである。その方向が異なるだけであり、根本的には批評も創造も同じものであると言えるのだ。

批評と創造を同じレベルで語ることができるために、エリオットは「芸術家が、それぞれ自己の限界内で、しばしば批評家としても信頼できる[ 同書、p.102。]」という結論に達しているのである。批評と創造は、決して相反するものではなく、むしろ根本的には同じものであり、非常に密接な関係にあるのだ。

「伝統と個人的な才能」(Tradition and the Individual Talent )

批評も創造も、共に純粋感情による心の動きの結果生まれたものだということが分かった。ところで、批評や創造という所作にとって、伝統を無視することはできないし、個人的な才能というものも、それらには大きく影響してくるはずである。伝統と個人的な才能が批評とどのような関係があるのか、エリオットの考え方を見ていくことにする。

エリオットによれば、イギリスでは「伝統という言葉が使われる時には、非難の意味が含まれている[ 吉田健一 訳『エリオット選集 第1巻』、彌生書房、1967年、p.9。]」という。それは、批評において伝統という基準を軽視しているということである。すなわち「我々が或る詩人を褒める時に、その仕事で他の誰にも似ていない点を特に強調したがる癖がある[ 同書、p.10。]」とあるように、批評で重視されるのは、伝統ではなく、何か新しい部分があるかどうかという点なのである。確かに批評というものは、創造された芸術作品において、それまで存在していなかったような新しい部分を見つけ出すことが役割であるように思われる。すでに存在していて使い古されたものを再び指摘しても、それは陳腐なだけであり、価値のあるものは何もないのだ。そして「我々はそういう点、或いは仕事の部分に、その詩人の個性的なもの、その詩人に特有の本質があると思い、彼が彼以前の人々、殊に彼の直ぐ前の人々とどういう風に異っているかに注意して、何かそれだけ切り放して楽しめるものを探そうとする[ 同上。]」とあるように、この新しい部分を、作家の才能や個性であると見なすのである。このように、イギリスの批評では伝統を軽視し、新しいものを個人的な才能として賞賛する傾向がある。

しかしエリオットは、このような一般的な傾向に反論している。「もし我々がそういう偏見に捉えられずに或る詩人の作品を読むならば、しばしばその一番いい部分だけでなく、最も個性的なのは、彼の祖先である死んだ詩人達がその不滅性を最も旺盛に発揮している部分であることを発見するに違いない[ 同上。]」というのである。すなわち、批評で最も重要なのは、新しい部分ではなく、伝統的な部分であるとしているのだ。これは一般的な認識に逆行するものであるように思われる。しかし、エリオットの考えるところの伝統とは、一般的な認識とは大きく異なっているのである。一般的に伝統とは「何かを伝え、何かを受け継ぐということが、単に我々の直ぐ前の時代に属する人々が収めた成功を臆病に、盲目的に真似て、一歩も自分で踏み出すことをしないこと[ 同上。]」であるように認識されている。しかしエリオットの考える伝統とはそのようなものではなく「遺産として相続出来るものではなくて、伝統が欲しければ、非常な苦労をしてこれを手に入れなければならない[ 同書、p.11。]」ものだという。そして「すでに存在している幾多の芸術作品はそれだけで、一つの抽象的な秩序をなしているのであり、それが新しい(本当の意味で新しい)芸術作品がその中に置かれることによって変更される。この秩序は、新しい芸術作品が現れる前にすでに出来上っているので、それで新しいものが入って来た後も秩序が破れずにいる為には、それまでの秩序全体がほんの少しばかりでも改められ、全体に対する一つ一つの芸術作品の関係や、比率や、価値などが修正されなければならないのであり、それが、古いものと新しいものとの相互間の順応ということなのである[ 吉田健一 訳『エリオット選集 第1巻』、彌生書房、1967年、p.12。]」とも述べている。すなわちエリオットの言う伝統とは、過去から現在にかけて続く、固定された価値観や基準などではなく、より流動的で現在もなお変化を続けているようなものなのである。そのために、ある芸術作品の中でもっとも強調すべき点というのは、全く新しい部分ではなく、伝統を継承しつつそれに変化を加えているような部分ということになる。伝統で重要なのは、それを護持するのではなく、秩序を保ったまま絶えず改良していくことなのである。そして才能や個性といったものは、そのような伝統をどう扱っているのかを問われるものなのである。

批評という行為においても、このような伝統の考え方を充分に考慮しなければならない。ある芸術作品の中で、ただ単に新しい部分を見つけ出すのではなく、伝統という大きな流れ、秩序を意識して、それがどのように扱われているのかという部分に注目すべきなのである。個人的な才能というものも、この伝統をどのように扱っているかということを基準にして考えていかなければならない。

結論

エリオットの批評に対する考え方を見てきたが、それらはどれも一般的な認識とは大きく異なるものであった。逆説的なものすらあった。しかしそのような考え方を見ていくことで、批評においてともすれば見落としがちな重要な本質や、陥りやすい誤りなどを指摘することができた。これらは批評をする際にも、あるいは批評を読む際にも充分に留意すべき点であろう。

エリオットは詩人、劇作家として数多くの芸術作品を創造した芸術家であり、自分の作品を批評される立場にあった。そしてまた自身も文学や思想について数多くの論考を書いた批評かでもあり、批評する立場にもあった。そのように批評において双方からの取り組みを行った人物であるからこそ、エリオットの批評に対する考え方には独特で示唆に富むものが多いのである。

引用文献

  • 『エリオット選集 第1巻』、彌生書房、1967年。

参考文献

  • 鈴木瑠璃子『まぼろしの荒地―エリオットの見た現代―』、松籟社、1995年。
  • 高柳俊一『T.S.エリオット研究』、南窓社、1987年。
  • 徳永暢三『T. S. エリオット』(Century books 人と思想102)、清水書院、1992年。