2020年
CoyaNote2020001
2020年の幕開け。いろいろと節目の年である。できる限り大暴れしよう。自分がこの世にいるという爪痕を残そう。
2020年1月2日
CoyaNote2020002
木炭紙が残り1枚となった。絵を描く時の下絵をつくるものだ。かれこれ10年前に買ったものだ。最大でF12号までとれる。最後の1枚には、何の絵の下絵を描こうか。
自殺のイメージ
いつでも自殺できるように、準備をしておけ。公園の大木にロープをかけて、首を吊れ。切れ味鋭いジャックナイフで手首を切れ。猛スピードで走り来る特急列車に足首から飛び込め。高い高いビルの屋上から、飛び下りろ。嫌なことがあったら、すぐに心の中で自殺のイメージを描け。
CoyaNote2020006
明るく病もう。笑いながら、その裏で泣いている。うつ病を抱えたまま、それでも仕事はしなければならない。
CoyaNote2020007
体の節々が痛い。すぐに疲れてしまう。
CoyaNote2020008
3日間ずっとふて寝してた。偏頭痛にも悩まされ、体の調子がよくない。
絵を描きたいけど、カンヴァスが手に入らない。なら、他にもっとやることもあるだろうに。
CoyaNote2020013
絵を描く。カンヴァスを買いに画材屋へ行く。雨で濡らさないように慎重に運ぶ。ジェッソを塗る。M20号を3枚。部屋を占拠して塗りづらい。扇風機の強風を当てて乾燥させる。
疲れた。
2021年
CoyaNote2021001
絵を描いた。下絵から間髪入れずにトレースして彩色。しかし、色数がやたら多くて疲れてしまった。しかも、あまりいい出来とは言えない。ぐっとくるものがない。
ところが、外出して帰ってみるとどうだろう。さっきはいまひとつだと思っていた絵が、とても良いものに思えてきたのだ。どういうことか。
少し間を置いてみると、味が染み出してくるということか。
続きを描くのが楽しみだ。
2021年1月28日
CoyaNote2021002
自殺は答えだ
CoyaNote2021003
掃除機をかけて、たまっていた洗濯物を干し、風呂場にこびりついていたカビを除去し、台所のシンクを磨く。少しずつ心が安らかになっていくのが わかる。一時の絶望感はなくなった。
2021年6月5日
CoyaNote2021004
もう、抒情画を描こうとするのはやめにしよう。うまくいきっこないんだから。大きくてつぶらな瞳を描こうとしても、下手くそな君にそれをするのは不可能なのだ。打開策はただ一つ、瞳を点で表現することしかない。抒情的、写実的な表現を捨て、あきらめて、記号的な表現で妥協することだ。そうでないと、いくら描いても意味がない。
2021年6月14日
CoyaNote2021007
耳垂れが臭い
透明なサラサラした液体が
気分を滅入らせる
CoyaNote2021013
久しぶりにクレヨンで描いてみたが、苦戦した。細かい部分を塗るのが難しく、狙ったところを外してしまう。隣の色と混ざって汚れてしまう。力を入れすぎなのか、すぐにポキッと折れてしまう。
水彩絵の具でバチック手法をやってみたが、クレヨンの細かい粒の上に絵の具がのっかってしまい、うまくはじかない。輪郭線も、油性マジックが通用しない。しかしこれは、筆ペンを使用することで対処できた。墨は、クレヨンの上でも塗れるということがわかった。
なんとか仕上げたが、いろいろと改善点が残った。次につなげていきたい。
2021年7月23日
CoyaNote2021014
万年筆のインクをブルーに変えた。いつ以来だろう。今までブルーブラックという、青とも黒ともつかない中途半端な色を使っていたが、ここで思い切って変えることにした。
第一印象は、色が明るいということだ。ブルーブラックのように落ち着いたものではなく、浮き上がってくるような輝きがある。
先日、恋文を書いた。便箋18枚にも及ぶ長大な愛の告白は、しかし返事が来ることはないだろう。
今度はこのインクで恋文を書く。このインク、この色なら、今度の告白は成功しそうだと思いたい。
2021年7月24日
CoyaNote2021015
クレヨンで描いてみた。白地をなくすために何重にも塗っていく。力を込めすぎて、何本か折れた。白は白そのものではなく、やや汚れた色となる。しかしそれが、陰影の表現のようになってよい感じである。
黒いクレヨンで輪郭線を引いてみたが、太くなってしまう。やはりパスだからか。クレヨンとクレパスの使い分けをしっかりして、マトリクスにまとめたい。
2021年7月25日
CoyaNote2021023
床の上に散乱した画用紙、トレーシングペーパー、新聞紙。創作途中は散らかってる。
CoyaNote2021027
クレヨンとクレパスを新しく買って、色を塗った。気をつけていても、やはり筆圧が強くて折ってしまう。新しいクレヨンは、汚れていないので色がとてもきれいに出る。塗る際に出たカスや、混色でついた他の色は、その都度パレットナイフで削ってきれいにしておくことが肝要だ。面倒くさがらないで、こまめにケアしていくことがきれいな彩色につながる。
さて、クレヨンで色を塗ったまではよかったが、輪郭線を引く段になって問題が生じた。なんと、このために買ってきた筆ペンのインクを クレヨンがはじいてしまい、うまく線が引けないのだ。油性マーカーでやっても、うまくインクがのらない。クレヨンの防御力はすさまじいものがある。
1枚は油性マーカーで強引に線も引いて仕上げたが、他の作品は黒のクレヨンで輪郭線を引くことにした。結局同じ画材で全てを仕上げるのがよいのだろう。今後の課題としたい。
最終的に完成したクレヨン画は、とてもよいものとなった。水彩でも色鉛筆でもない、クレヨンでしか表現できない絵となった。しばらくはこのスタイルで描いていこう。
2021年8月14日
CoyaNote2021029
何をやっても上手くいかない。早とちりして、内容をよく読まなかったのが悪い。空回りする。打破する方法はあるのか。
CoyaNote2021031
次々と描きたいイメージが泉のようにあふれ出てきて、あっという間に画用紙を使い切った。今度は2冊ずつ買ってきて、準備は万全。ひたすら線を引いて、トレースしていく。カーボン紙をめくって、下絵がその姿を現した時に、「いいじゃん」と素直に思えるものは、成功する。もちろん、中にはいまひとつのものもあるが、それを彩色でどう立て直していくかが、力の見せどころである。
とにかくたくさん下絵を描いて疲れた。まだまだ、描かねば、絵にしなければならないイメージ たくさんある。それはなんと嬉しいことだろう。
2021年8月17日
CoyaNote2021032
朝早く起きて、出勤前に下絵を描く。仕事関係ということで、同期の女の子を描く。元の写真の絵があまりにも細かったので、思い切って線によるニコニコとした記号的表現にしてみた。これが上手くはまった。カーボン紙を外して下絵を見た時、思わず笑ってしまったぐらいだから、大成功である。
早く続きが描きたいが、残念ながら時間切れ。出勤しなければならない。とても憂鬱である。ずっと絵だけ描いて生きていければいいのに。
CoyaNote2021033
朝はすこぶる調子がよかったのに、仕事というか研修を受けて、疲れて帰ってきたら、体はボロボロ、寒気や左肩の痛みなどで、とても絵が描ける体調ではなくなってしまった。なによりも、描こうというやる気が失われてしまった。気分にムラがある。
2022年
CoyaNote2022001
明晰ならざるもの、短歌にあらず、俳句にあらず。詩が、心に訴えかける芸術性を第一とする表現であるなどいう宣伝は、まったくの嘘っぱちだ。耳ざわりのよい言葉を羅列しただけで、一読して理解できないような詩が、優れているはずがない、少なくとも僕は、そんな詩や短歌、俳句を詠むつもりはない。
本当の詩とは、きわめて明晰で、科学的に解を出すことのできる厳格な論理性を持つものである。数学の問題を解いていくように、要素が過不足なく、適切に構築されていくものが、僕の詩、短歌、俳句で ある。
詩には、主に三つの種類がある。 叙情詩、叙景時、叙事詩の三つであるのだが、おそらく多くの人が詩に抱く性質は、叙情詩によるところが大きいだろう。 自分の気持ちを、感情を、言葉にしたもの、それが詩であると。自由な発想で、豊かな感性で、心の声を言葉で表現してみましょう、ほら、詩ができましたと。それも一つの考え方であろうが、僕はそんな詩は好きではない。絵も描く僕は、なによりも叙景詩を目指したいと思う。読めば、イメージが明晰に思い浮かべられるもの、曖昧でぼんやりとしたピンボケなど一切ないもの。それこそが僕の詩、短歌、俳句だ。
また、叙事詩も重要だ。ストーリーが、フェードイン、フェードアウトすることなく、はっきりと流れていくこと。物語が動き出し、終幕まで続いていく詩、短歌、俳句を詠んでいく。
とどのつまり、意味のわからないもの、訳のわからないもの、解釈に検討の余地を残すもの、そういうものは詠まないということだ。誰に対してもわかりやすく、明晰な詩、短歌、俳句、そういったものを詠みたい。
CoyaNote2022002
今ひとたび、ふたたび、小説を書こうと決心した。
もともと子どもの頃の最初の夢は、小説家だったじゃないか。作文に毛の生えたような、とても読むに堪えない恥ずかしくてひどい小説、それはもはや原稿もなにも残っていないものではあるが、そんなものを真剣に書いていた。
こうやってノートに文を描くことも、小説から始まった。ノートを横に倒して、縦書きで、鉛筆で殴り書きしていた。
振り返ってみると、早稲田の一文に行きたいと思うようになったのも、小説の書き方を学べ、卒論の代わりに自分の作品を提出してもよいということを、断片的な情報で知ったからであった。
僕の創作の出発点は、小説であったといってよい。
しかし、飽き性からなのか、長い文章を書くことがどうにも苦手で、書き出してはいいが、いつもプロローグで投げ出してしまい、ついぞ完結を迎えることはなかった。絵の方でも大型画面の作品を描けないのも、この創作持久力のなさが原因であろう。身体的にも、長距離走が大嫌い(かと言って短距離走が得意かというと、決してそんなことはなく、要するに運動音痴なだけなのであるが)だし、一つのことをコツコツと継続していく力がないのだ。
俳句、短歌、詩などの韻文、あるいは絵でも小品の、全体がコンパクトなものしか創れないでいた。
今こうして小説を書きだすにあたっては、これまでの経験を駆使していきたい。具体的にいうと、論文を書いたり数学の問題を解いたりする際の、構築していく方法論である。
これを小説という視点で 考えなら、プロットを作成するということになる。
絵を描く時もそうだが、なんの計画もなしにいきなり最初の一歩を踏み出しても、すぐに方向を見失い、立ち止まってしまう。事前に綿密な設計図を作って、道筋をしっかりと示しておくことで初めて、実際の創作に取りかかれる。小説とは、ペンの向くままに描く随筆や、オートマティスムとは違う、建設的な作業だ。37年生きてやっとそのことに気付けた。
題材は、これまでの体験をもとにした、私小説ということになる。この惨めで、哀れで、無様で、恥にまみれたしょぼい人生を物語にして、切り出していく。
これからの創作人生は、小説執筆という新たなステージへ進むこととなる。
第16冊ノートを終えて
「2020年の幕開け。いろいろと節目の年である。できる限り大暴れしよう。自分がこの世にいるという爪痕を残そう。」
2020年1月2日に、このような書き出しで始まったこのノートは、大暴れの末にそこからノンストップで転落し堕落していく人生を、刻み込むものとなった。それはあたかも、世の中が新型コロナウイルスという未知の禍によって、変化していくことと呼応しているかのようであった。
創作においては、絵でも文章でも、性的表現に手を出してしまった。それまでずっと御法度、タブーとしてかたくなに禁じていたのに、魔が差して軽い気持ちで始めた悪行は、止めることができず、下衆で猥褻で、品性や神経が疑われるほど狂った異常な作品が次々と生まれた。芸術を低俗なポルノに貶める許されざる愚行であり、もはや創作する権利が奪われても仕方ないほどの暴挙であった。
そしてこの間、それまで通院によってうつ病の治療を続けていく中で、僕は発達障害と診断された。これまでの人生を振り返ってみると、確かにその特徴に当てはまることが数多くあり、ついに僕は、普通の人間ではない、異常者であることが、医学的に証明されてしまった。
残念ながら、まともな、他の人と同様の普通の人生はもう送れない。これからは、キチガイとして、キチガイなりに、キチガイらしく生きていくしかない。もう僕の人生は終わった。僕は死んだ。あとは幽霊かゾンビ、キモいモンスターだ。
2022年10月31日 プラス思考でCoya