2022年
CoyaNote2022003
全ての成功体験を、「過去の栄光」と蔑み、いつまでも過去の栄光にすがりついている哀れな奴とネガティブにとらえているうちは、向上なんて望めない。
CoyaNote2022004
君のために僕ができるたったこれだけのちっぽけなこと。
CoyaNote2022005
どうせギャグかコントみたいに低俗で嘲笑的な人生なんだから、面白おかしくおちゃらけて生きていけばいいじゃない。
CoyaNote2022006
人に笑われる人生、人を笑わせる人生。
2023年
発達障害者は空気が読めない
またやってしまった
あれだけ注意されたのに
また他人の会話に割り込んで
混乱を引き起こしてしまった
注意されたその時は
二度とやるまいと誓うのに
すぐその決意を忘れてしまう
障害者だから
障害はしょうがない
脊髄反射してしまう
目で見た光景を
頭脳が処理して
その行動をとると
どのような事態を招くのか
考える力がない
空気のリテラシーがない
空気が読めない
きっとこれからも
繰り返し同じような
KYな行動を
してしまうだろう
発達障害者はマジでウザい
いい加減にしろよ
そう周囲に思われていることにすら
バカは気付いていない
CoyaNote2023001
朝、職場に来るだけで一苦労。
自分の席に座ると、今日はどんな悪いことが起こるだろう、どんなことで怒られるだろうとビクビクする。そして、たいていその悪い予感は的中する。
一度怒られると、その日はもう仕事が手につかない。気分が酷く落ち込み、やる気が出ないため仕事に集中できない。ぼーっとしてしまう。
重く潰されそうなプレッシャーで、極度の緊張を強いられる。少しも心が休まる瞬間がない。息が詰まりそう。
自己否定感しかない。自分はまるでダメな、クズ人間であるとしか思えないし、事実そうなんだろう。小学生でも出来る簡単な仕事さえ満足にこなせない、役立たずの木偶の坊。もう何の仕事も任せられない。はっきり言って要らないお荷物。いるだけで迷惑、いた方が迷惑な存在だから、みんな辞めてもらいたいと思っている。いなくなっても誰も困らないし、歓迎される。
CoyaNote2023002
自分を殺した。職員証と免許証の写真を拡大コピーして顔を切り抜き、段ボールに貼り付けて、スーツとツナギをマネキンみたいに着せて、ロープで首をくくって、吊った。首吊り自殺アートの完成だ。
今すぐに死のう。
2023年5月21日
CoyaNote2023003
途中で描きかけのまま長らく放置していた絵の続きを再開することにした。ほこりを拭いて、もう一度絵や描くことと向き合う。
彩色をしたものは、方向性が定まらずに迷っている心境がそのまま表われている。このままではいけない。迷っていては先に進めない。どうすべきか決断をしなければいけない。
これまでのスタイルや特徴を簡単にまとめると、
- ムラやかすれのない、均一的な色の塗り。平面的、すなわち陰影がないために、立体感の欠如した色彩表現となっている。
- くっきりと太い輪郭線によって、明確にされた形。それは同時に、セパレーションで色の区切りもはっきりとわかるようになっている。
- このような、平面的な色と、実際には見えない輪郭線による形から、現実非再現的な、偽善的な、イラストのような絵というのがこれまでの表現であった。
- さらに詳しく述べると、人物画においては、目はアイラインもまつ毛もなく、目玉焼きのような黒目と楕円形の白目だけのアーモンド・アイか、さらに現実非再現的な、黒く小さな点による記号的な表現のどちらかであった。
- 口も、歯を描くことはけっしてなく、葉っぱのように真一文字に線を引くだけのたらこ唇であった。
- そして、鼻は描かなかった。非立体的なスタイルにおいて、極めて三次元的な鼻を色で表現することは不可能に近く、かといって線を引くだけではそこだけ目立ってしまい、全体のバランスがとれないため、思い切って省略するという選択肢をとっていた。
- 以上のような顔のパーツの表現では、可愛い人物を描くことができず、自分の求める、描きたいものではなかった。仕方ないと、妥協とあきらめの産物がこれまでの絵であった。
- このような状況を打破しようと、新しいスタイルに挑戦したのが今回の絵であった。しかし途中でやめてしまったので、確立させることができなかった。だが、時間が経って改めて見てみると、その特徴や効果、何がしたかったのかがわかるようになった。
- 色については、ムラやすれを意図的につくり、陰影を表現することで、立体感を出そうとした。例えば、あごの部分のライン、また髪もハイライトを入れるなど、色に差異をつけることで、艶や輝きを出そうとした。これにより、これまでの最大の特徴であった輪郭線を排除しようと試みた。
- 顔の各パーツについても、目はアイラインを引き、黒目にも複数の色を使った。口も同様にベタ塗りとせず、そして歯も描いてみた。さらに、色によって鼻を描くことで、三次元的表現を獲得しようとした。人物画で鼻を描くのは、とても画期的なことであった。
- こうした新たなスタイルによる効果は、現実再現的に見えるというもので、すなわちこれまでの偽善的な絵画を脱して、写実的なものとなった。このまま彩色を進めていけば、より複雑の色の差異が出て、より写実的になるだろう。
- 肝心の可愛さについては、目では確実に進歩があった。まだラフな塗りの段階ではあるが、これまでのアーモンド・アイにはない魅力がある。それはアイラインと複数の色の黒目によるところが大きいだろう。
- 口については微妙で、濃い色から白を加えて差異をつけることで、今までと違う表現にはなっているが、形をもっと整える必要がある。また、歯はまだ白く塗っただけだが、これにも差異をつけ、一本一本を描いていくことが果たしてよいのかはまだわからない。
- 鼻についてはさらに未知数である。しかし、写実的な人物画において、鼻を描かないというわけにはいかないだろう。形をとるのが難しい。
- 髪については、色の差異によって質感や流れ、動きを出すことができている。これもさらに深めれば、艶や輝きが生まれ、ツヤツヤ、サラサラ、ふわふわな髪となるだろう。また、書き忘れていたが、今回は黒髪ではなく茶髪に染めてみた。こちらの方が、垢抜けて可愛くなる。黒のベタ塗りでは、忍者の頭巾をかぶっているようになってしまう。
- あごのラインに陰影をつけることで、顔と首の区切りがつき、立体的な表現となっている。これなら、輪郭線を引かなくてよさそうだ。
- このように、時間をあけて別人のような立場で見てみると、新しいスタイルの収穫と課題が浮かびあがってきた。
さて問題は、これからどうするかである。このまま写実的な描き方でいくのか。だがそれは、普通の絵を描くことになる。一般的な技能が問われ、他の多くの優れた画家たちと同じ土俵で勝負しなければならない。とてもではないが、自分の下手くそな絵が通用するはずがない。劣等感で絵が嫌いになってしまうおそれもある。
では、結局、偽善絵画を描くしかないのか。偽善的であっても、可愛ければよい。そう考えることが、解答のような気がする。
選択肢や方法はいくつかある。それらをしっかりと整理して、最適なものを選んでいくことだ。
2023年6月3日
37歳が終わる、人生もほとんど終わっている
今日で37歳が終わる。そして僕の人生ももうほとんど終わっている。
昨日から病休で仕事を休んでいる。これで二度目だ。最初の時も6月7日からで、悪いことだけ歴史は繰り返し、法則があてはまる。
発達障害であることがわかり、それを不本意ながらも受け入れ、なんとかやっていこうとしたが、現実はそんなに簡単にはいかない。
コミュニケーション、スケジュール管理、マルチタスク、優先順位、おおよそ仕事を進めていく上で必須の能力が著しく欠如していて、何も出来ない。周囲の憤慨は至極当然のことで、いい加減にしろ、何年社会人をやっているんだ、子どもかお前は、コミュニケーションをとったり協力ができないなら自営業でもやった方がいい、もう電話に出なくていいよなどの叱責が浴びせられた。
車両の管理がなってないからと、管理用紙をつづったバインダーを投げつけられ、電話応対でうろたえていると突然保留ボタンを押され、他のことに気をとられて質問に空返事をしたら書類を投げ捨てられ、心が完全に折れた。でも全て自分が悪いのだから、このような仕打ちをされても仕方ない。他の人が当たり前に普通に難なく出来ていることが出来ないのだから、怒られるのは当たり前だ。この組織には不要の、損害しかもたらさない疫病神、それが僕だ。
発達障害を免罪符にいて、出来ないと、無能なことを仕方ないと開き直っている。言い訳をしている。自暴自棄になって、もう仕事なんてどうでもいいと投げやりになっている。ネガティブ思考は悪い事態しか引き起こさず、それによって自己否定感がさらに増大するという負のスパイラルがずっと続く。
障害者枠への職種替えに、一縷の望みをかけていたが、そんな制度はないことがわかり、希望は潰された。もう無理だ、限界だと感じ、休むことにした。逃げたという気持ちがとても強い。
37歳も38歳も、もうどうだっていい。これから先も対していいことはないだろうし、発達障害のクズがまともな人生なんて送れるはずがない。もう何のために生きているのかわからない。生きることが辛いし、意味や価値や喜びを見出すことができない。そんな37歳の、人生の終わり。
2023年6月6日23:41
CoyaNote2023004
人間未満の発達障害者が
人間社会で
人間ヅラして
人間様に迷惑かけてんじゃねーよ
プリミティヴに回帰する創作
あらゆる創作活動をプリミティヴに回帰しよう。小学生、いや幼稚園児のような素朴な遊びをしよう。
文学では、400字詰原稿用紙に書いていく。万年筆ではなく、鉛筆で書写のように文字を刻んでいく。フエルトペンを用いるのもよいだろう。
美術では、色鉛筆やクレヨン、水彩絵の具で描いていく。切り紙や紙版画、こすり出しなどの図画工作遊びも行う。
音楽では、ピアニカを吹く。カスタネットを叩く。童謡や唱歌などの単純な曲を書く。おもちゃのような楽器を演奏する。
どうせ発達障害者だ。精神が正常に、フツーに成長できない人間未満のイカれたキチガイだ。永遠に大人になれないキモイモンスターなんだから、野蛮で未開の創作で充分だろう。むしろそれしかやってはならない。フツーの大人、ちゃんとした人間様が行うような発展的表現など、絶対にやってはならない。
昔やろうとして未完に終わったことに、今改めて挑戦しよう。好きな人のことを想い短歌を詠んで歌集を編み、いつも傍にいられるように好きな人をモデルに絵を描き、好きな人に聴かせるための歌を作る。青春のやり直し、原初回帰、発達を遂げなかった者にだけ許されたギフトを楽しもう。
2023年7月15日
第17冊ノートを終えて
このノートを終えた現在、僕は二度目の病休で仕事を休んでいる。もはやそれが当たり前になってしまい、1ヶ月半前まで定時に出勤して仕事に生き、しばしば残業までするフツーのサラリーマンの生活を送っていたことが信じられない。実際のところまともに仕事はできていなかったのだから、きっと嘘なんだろう。もう仕事復帰なんて無理だから、今の仕事を辞めて、就労支援サービスを受けて、発達障害者の雇用で働こうと考えている。
発達障害であることが判明して、人生をあきらめ、絶望した。フツーの、まともな人生なんて送れないのだから、めちゃくちゃに狂った生き方をするしかない。
さて、このノートから、書き方が変わった。今までのようにどうでもいい無駄な言葉の連なりでページを埋めるのではなく、短歌や俳句を詠むための思案の軌跡を記録するクロッキーブックのような使い方となった。別の紙片に書いたり印字したものを切り貼りして、ネタ帳の様相を呈するようになった。これからはこのようなノートの書き方となる。
そして、歌集を編むために短歌を詠んでいる途中で紙幅が尽きた。前もって準備しておくのではなく、終わってから慌てて次のノートを買いに行く。それは理想的な流れだ。
2023年7月15日 プラス思考でCoya