第20冊ノート(2024年2月29日~2024年4月18日)

2024年

CoyaNote2024004

バカは
バカで
バカなりに
バカとして
バカらしく
がんばってるんだから
バカにしちゃかわいそうだよ
ね、おバカさん

CoyaNote2024005

バカ正直はただのバカ

新たな手法について

絵を描く際、これまではまず輪郭線を引いて形を作り、次にその中に彩色を施してきた。それは水彩でも油彩でも同じで、ぬりえのようなやり方で描いていた。

今回、実験的な表現として、輪郭線を引かずに描くということを試みた。トレース台で線を引いた下絵の上に画用紙をのせて、下絵のラインをたよりに色を塗っていく。その際も、色で大枠の線を引かないよう、筆致を意識して、メン的な色彩表現となるように留意した。

結果として出来上がったのは、今までにないとても不思議な絵であった。輪郭線がないため、かっちりと型にはまりすぎた印象のない、とても柔らかで優しい表現となった。輪郭線が絶対的な存在として色はそれに従うのではない、色が形を作っていくと、このような表現になるのかという驚き、新鮮な発見があった。

特に、ものとものとの重なりの部分では、自然と隙間のような塗り残しが生まれ、それが陰影表現となって自然に見えるようになっていた。

全体的には、多色多版摺りの木版画のようになっていた。

この手法は、今後主流となっていくだろう。もちろん、太い輪郭線を引いた方が魅力的になる場合もあるので、輪郭線を一切なくす、排除するというわけではない。要は使い分けであり、絵によって最適な手法を選び、用いてこそ多様で幅広い作品をつくることができる。

実験作としての第一弾は色鉛筆で描いたが、クレヨンや水彩、アクリルでも可能である。そして、カンヴァスでは暑くてトレース台で下絵のガイドラインを透かすことはできないが、プロジェクターを使えば投影が可能である。

画業が新章へ突入する予感がする。

2024年3月18日

追記

さっそく、クレヨンと水彩でもこの手法を試してみた。クレヨンは斜め線で粗く塗ったのだが、やはり柔らかい印象となった。ただし、やや大雑把すぎたのか、画面が粗野なものとなってしまったことも否めない。

逆に、比較対象として輪郭線を引いたものもつくったのだが、ゴリゴリ、グリグリと何回も執拗にクレヨンを塗りこめていたら、また新しい魅力的な色彩表現となった。クレヨンは奥が深く、まだ自分のものとして使いこなせていない。更なる研究と理解が必要である。

水彩の方は、この手法の効果は抜群であった。最初に筆で水のみを画面に塗る。この際の注意点は、刷毛でするように均一的に水を塗るのではなく、描く対象の形に沿って筆を動かすことだ。いわば絵の具のない、水だけで輪郭線を引いていくようなものである。

画面が濡れているうちに、水でたっぷりと溶いた絵の具を染み渡るように塗っていく。先ほどつくった水の形に絵の具が広がっていく。透明水彩の淡く詩情に満ちた作風となった。これは予想以上だ。

また、混色をパレット上でなく、画面上で行うこともできる。差異のある色の層が重なり合い、にじんでとても味わいのある表現となった。

こちらも比較対象として、輪郭線のあるものもつくってみた。色の塗り方も、今度はグアッシュのように濃く、平面的なものとすることで、より違いがわかりやすくなった。

それにしても驚くべきは、ぺんてるエフの表現力の幅広さである。水の加減で透明水彩風にも、グアッシュ風にもできるのである。本当に同じ絵の具で描いたのか、にわかには信じられないほどだ。

逆に言うと、この画材を使う際は、透明水彩風でいくのか、それともグアッシュ風でいくのか、はっきりさせないと、どっちつかずの中途半端なものになってしまう。明確な意思が不可欠なのだ。

また、同じ画面上で、両方の作風を併用することも可能である。メインとなるものはグアッシュではっきりと描き、背景の部分は透明水彩風にぼかすというものも考えられる。この絵の具の可能性は無限大である。

本日得られた知見としては、この手法を最も効果的に行えるのは水彩、次いで色鉛筆、クレヨンはやや課題が残るということである。また、線的表現ではないため、あまり細かい描写は難しい。すなわち描く対象の抽象化、単純化が必要であり、大きなマッスとしてとらえていくこととなる。そのように考えると、この手法は多色多版の木版画に似ている。

A3、F6程度までの大きさなら、トレース台を使えるが、それより大きい画面だと、プロジェクターで下絵を投影する必要がある。あるいは、鉄筆で溝を刻んでいくという選択肢もある。マスキングテープやステンシルも含まれうる。

とにもかくにも、この手法はいける。手応え、可能性を感じる。さらに研究を深めて、メソッドを確立させたい。

なんてことはない、昨日新しい手法と驚嘆していたこの描き方は、「没骨もっこつ法」として東洋絵画の中ですでに確立されていたものであった。なお、これまでの手法である、輪郭線の中に彩色を施していくのは「鈎勒こうろく法」である。

中国北宋の画家である徐祟嗣の作品を評する言葉として用いられたのがはじまりで、それまでの宮廷画の主流であった鈎勒法による花鳥画とは対照的な新しい表現として広まった。

没骨法は日本にももたらされ、俵屋宗達や琳派、円山・四条派などの絵画で用いられた。

明治時代の日本では、岡倉天心の指導の下、横山大観や菱田春草ら日本美術院の画家たちが、新しい日本画の表現として西洋の空気や光の描写を取り入れた。描線のない、色彩による曖昧模糊とした作風は、当時は、日本画の根本とされていた墨線を否定するものとして批判され、「朦朧体」とも「縹渺ひょうびょう体」とも酷評された。

これまで執拗なまでにこだわっていた輪郭線と彩色が鈎勒法、そして今回の手法が没骨法である。描線がなく、墨や色彩の濃淡のみで描いていくため、より技術が必要となってくる。

すでに確立されている表現手法を、さも自分が初めて生み出したかのように錯覚して喜んでいたとは、まるで釈迦の掌の上で遊ばれている孫悟空のようで、とても恥ずかしく無力なものである。とはいえ、あの時感じた手応えや可能性が、間違っていなかったと確信できることでもあった。

輪郭線がないことによる柔らかく、優しい表現は、一方で曖昧模糊でもありまさに朦朧で縹渺(かすかではっきりしないさま)という形容が適切だ。

西洋画の大気や光の描写としては、印象派がまっさきに思い浮かぶが、輪郭線を用いないという点では、例えばスフマートなどもその射程に入ってくるだろう。

考えてみれば、かつて、日本の絵画は輪郭線を引く、西洋の絵画は輪郭線を引かないと両者の違いを対比させて理解していたではないか。忘れていた過去を思い出しただけだが、結局のところ全てはつながっているということだ。

没骨法、朦朧体・縹渺体、スフマート、それぞれの語のニュアンスは微妙に異なるだろうが、いずれにしてもこれらが今後のキーワードとなる。もちろん、描くイメージによっては、鈎勒法を用いる場合もあるだろう。どちらもできることが大切な能力となってくる。

水彩だけでなく、色鉛筆やクレヨン、ペンなどによるドローイングでもこの手法を用いたい。

画業は間違いなく新章へ突入する。これは確定した。

2024年3月19日

昨日の没骨法の研究をさらに深める実験を行った。

鉛筆で輪郭線を引いた後に、ペン(アルコールマーカー)と色鉛筆でそれぞれ面的描写を意識して彩色していった。ペンの方は極太のマッキーで描いた猫の尻尾の部分がよくできた。水墨画のように、筆致がぴんと伸びた尻尾を巧みに表現している。逆に、細いマッキーで描いた猫の顔の部分は、筆致が上手く出ずに残念な結果となってしまった。

色鉛筆の方は、猫の鼻筋の部分で、ピンクと白のストロークを混ぜる手法を取り入れてみた。

と、ここまでは従来の手法、鈎勒法なのだが、ここからが新しい試みで、一通りペンや色鉛筆で彩色が済んだところで、輪郭となる鉛筆の線を消しゴムで消すということを行ったのだ。最初から輪郭線を引かないのではなく、一度引いた輪郭線を消去するという、いわば引き算の発想である。

結果としては、ペンでは鉛筆による輪郭線をほぼ全て消すことができたが、色鉛筆では少し残ってしまうというものとなった。また、ペンでは支持体となる紙が消しゴムをかけることで毛羽立ち、一部剥がれてめくれてしまうところが出てしまった。これは紙やペンの種類の問題でもあるが、過剰に消しゴムをかけるとこうなる可能性があるということに留意する必要があるだろう。

また、消しゴムをかけると、輪郭線の鉛筆だけでなく、彩色の色鉛筆も一緒にこすれて薄くなってしまうという事態も起きた。これも当然のことであるが、行う際は忘れてはならないことでもある。そして消しゴムをかけることで、色鉛筆の方はより朦朧と、縹渺と、ぼんやりしていてはっきりしない、まさに没骨法の表現となった。猫の毛並みのふわふわ、もこもこ、もふもふとしたマティエールを表現するのに、これほどふさわしいものも他にないだろう。猫だけでなく、うさぎやひよこなど他の動物の毛並みや、雲や霧などつかみどころのないもの(つまりは空気や光など)に応用できるだろう。

輪郭線を消去した後で、さらに彩色を加えて、重ね塗りを行い、解像度を高めてピントをくっきりはっきりさせることも可能であるが、あまりにもやりすぎると、せっかくの柔らかくて優しい色彩表現の魅力を殺してしまうことにもなりかねない。どれくらい重ね塗りをするか、加減や調整が肝要となってくる。

ペンにしても色鉛筆にしても、面的な描写となることを意識するわけだが、現実的には線で彩色するため、筆致(ストローク)がそのまま反映されることとなる。線の密度を濃くすればある程度解消できるが、どうしても支持体の地の色が塗り残しとして出てしまう。白い画用紙だとそれがさらに目だって、全体的に粗い表現という印象になってしまう。支持体を色画用紙にするとか、下準備として水彩絵の具などで面的な地塗りを行うなどの工夫が必要である。

今回得られた結論は、色を加えるだけが表現ではなく、消去していく、引き算していくことでできる表現もあるということだ。さらなる考察を続けていこう。

2024年3月20日

没骨法による色彩表現についての研究

これまでとは異なる色彩表現として、新たに没骨法を採用することを構想している。すでに絵画表現の歴史の中では確立された手法ではあるが、自分自身で取り入れるのは初めてで、未知のことが数多くあり、新しい発見も少なくない。そこで本稿では、没骨法を採用するにあたり、気づいたことや留意点などをまとめ、今後の活動のための指針を築きたい。

1. 名称と説明について

まず、手法の名称について簡単にまとめておこう。

(1) 没骨もっこつ

「没骨法」という言葉は、中国北宋の画家である徐祟嗣の作品を評するものとして用いられたのがはじまりである。それまでの中国の伝統的な宮廷画家たちの主流は、墨線で輪郭を描き、その内部に彩色を施すというもので、これを「鈎勒こうろく法」という。これはまさに、今まで自分が絵画で描いてきた手法そのものである。

これに対して没骨法は、読んで字の如く絵の骨格となる輪郭線を引かないことが最大の特徴である。彩色を施す際のガイドラインとなる輪郭がないため、色の濃淡のみで形を造らなければならず、筆遣いの力量が問われる。

没骨法は日本にももたらされ、俵屋宗達や琳派、円山・四条派などの絵画に取り入れられた。
没骨法とそれに対する鈎勒法が、基本となる概念である。

(2) 朦朧体・縹渺ひょうびょう

明治時代の日本では、岡倉天心の指導の下、横山大観や菱田春草ら日本美術院の画家たちが、新しい日本画の表現として西洋絵画の大気や光の表現手法を取り入れた。描線のない、色彩による曖昧模糊とした作風は、当時、日本画の根本とされていた墨線を否定するものとして批判され、「朦朧体」とも「縹渺体」(縹渺とは、かすかではっきりしないこと)などと酷評された。

朦朧体による作品として代表的なものに、大観《菜の葉》(1900年)や春草《王昭君》(1902年)などがある。

朦朧体という言葉も、この手法を取り入れる際には覚えておかなければならないだろう。

(3) スフマート

大観ら朦朧体の画家が参考にした西洋絵画の大気の表現手法に、スフマートがある。これもまた、輪郭線を用いずに対象物の立体感や形状を表現する技法で、はっきりとは認識できないほど微妙に色の異なる絵の具を何層にも塗り重ねていく。レオナルド・ダ・ヴィンチの《モナリザ》にも用いられた手法である。

油彩やアクリルなど、洋画を描いていく上では、スフマートもまた射程に入れておかなければならないだろう。

2. 実験結果と考察

没骨法を取り入れる手始めとして、いくつかの実験を行い、どのような結果となるか考察していく。

(1) 基本

没骨法の基本として、墨、すなわち黒い色の輪郭線を引かないのはもちろんだが、彩色を施す際も、最初に塗る範囲をぐるっと縁取らないことが重要である。長年行っているため、色がはみ出さないように無意識のうちにやってしまう癖のようなものだが、これを排除することが没骨法の原則である。色を塗りながら形をつくっていくのであり、そのため、筆の力量が問われることとなる。

図1はテンプレートを使って円を塗ったものであるが、同じ色を使っていても、輪郭線があるのとないのとでは、そのイメージは大きく変わってくる。慣れないうちはこのように型をつくって、その中を塗っていくステンシルがよいだろう。

(2) ストロークの方向

同じ形を同じ色で塗る場合でも、図2のようにストロークの方向によってもまた、イメージが変わってくる。スフマートと関係させて考えると、光の当たり方や影のでき方などがまず当てはまる。

また、どの方向の動きを強調したいかでストロークも変わってくる。人物の背の高さを強調する場合は、縦方向のストロークになり、風景の広がりを強調する場合は横方向のストロークになる。右肩上がり、右肩下がりの斜め方向のストロークで、それぞれ上昇感や下降感が表現でき、画面の中に動きが生まれることとなる。

空や背景などを塗る場合は、風や雰囲気など目に見えないものを表現するのに効果的である。

(3) フロッタージュ技法との組み合わせ

没骨法は色を塗るためのガイドラインがないため、通常は支持体の下に下絵を置いて、トレース台を使って透かし、彩色していく。

支持体の下に置くものを、下絵ではなく凹凸のあるもの(例えば型など)にすると、フロッタージュ技法によって形を造ることができる。

結果的に輪郭線のようなものができてしまうが、それは直接引いたものではなく、ぼんやりとしている。なにかがうっすらと出現したようなイメージ、まさに朦朧とした表現である。(1)で慣れないうちは型を使うと述べたが、その型はフロッタージュにも用いることができる。

(4) グラッタージュ(掻き落とし)

鉛筆やペンなどで輪郭線を引く代わりに、鉄筆で溝を刻むグラッタージュも考えられる。通常のグラッタージュではまず色を塗って、次に鉄筆で絵の具を掻き落として形を造っていくが、順番を逆にしても成り立つ。この時にできる輪郭線の色は、支持体あるいは地塗りの色ということになる。

輪郭線を刻む際にも、トレース台を使用する必要があるが、これもフロッタージュと同様にくっきりしていない輪郭線を造ることができる。

(5) 地塗り

ストロークで色を塗っていくと、どうしても塗り残しが出てしまう。支持体の色が白の場合は特に、粗い筆致という印象が強くなり、それも魅力の一つだが、これを避ける方法がある。あらかじめ、大まかに地塗りをしてくことである。

これは以前、ピエロの肖像画を描いている時に思いついたアイディアで、まず水彩絵の具で対象の形を均一の平塗りで彩色し、その上から色鉛筆やクレヨンで細部を描いていくというものである。水彩の均一で平面的な色でまず全体の色を大まかにつくり、次に線描によって描き込んでいくと、より濃厚で深い表現ができるのではないかと考えたものである。

これを応用して、あらかじめ水彩で地塗りをして、その上からストロークでさらに色を塗っていけば、支持体の色が塗り残しで出るということを避けられる。

図5が実際に地塗りを行ったものであるが、その差は歴然としている。メモでも書いてある通り、地塗りの色の形が全体の印象を決定づけるほど強大である。もはや地塗りではなく、水彩と色鉛筆・クレヨンのそれぞれで没骨法を行うといった方がより適切だろう。

なお、クレヨンでストロークした後に水彩絵の具を塗るとバチック技法となり、没骨法はこの順番を逆にしたものということになる。地塗りは絵画の基礎となるということを改めて認識させられる。

(6) 輪郭線をずらす

最後に、没骨法によって色が造った形から少しずらして輪郭線を引くとどうなるか試してみた。

図6がその結果であるが、効果としてはメモ書きにもある通り、まず装飾性が強い表現となる。また、2つの形ができることで、複眼的、ダブる、かぶるといったイメージになる。そして、没骨法で塗った色の部分が影のようになり、立体的な表現となる。図6の一番右下のように、人物像で用いると、幽体離脱や脱皮など、1つの物体が分かれるイメージを表現することができる。これは一つの武器となりえるものだ。

色の形と輪郭線を、どの方向にどれくらいの距離でずらすかが重要となってくる。

3. 色画用紙に塗った場合

次に支持体が白ではなく、色画用紙にするとどうなるか試してみた。当然のことながら、同系色だと没骨法の色は目立たず、よりぼやけたものとなり、補色同士だとより引き立て合うなど、配色の理論に従うものとなった。

また、白画用紙の時よりも、ストロークによる塗り残しが目立たない。没骨法においては、色画用紙を支持体にすることがとても有効であるといえよう。

鉄筆で輪郭を刻んだり、輪郭をずらしたりと、これまでの技法も行ってみた。鉄筆を使った場合、ペンによるストロークや溝をこすり出さなければ、輪郭線はほとんど目立たないことがわかった。これも貴重な発見だ。

トレース台が使えない場合などで、鉄筆は没骨法の有効な手段となるだろう。

4. 色の寄せ集め

また、応用技法として、パーツごとに色で形を造り、全体のトーンが均一になるようになだらかにするということも行った。それはまるで、寄木造り、あるいは粘土による塑造のようである。形が圧倒的に目立つ彫刻の制作手法は、形を造ることに主眼を置いた没骨法にも当てはめることができるのだろう。

没骨法による色彩表現について、実践をもとに考察を行ってきた。

初めて描いた時に感じた手応えや可能性は、こうして研究してまとめることで確信となった。これらの成果を踏まえて、今後は没骨法に取り組むこととする。

2024年3月22日

CoyaNote2024006

君には生きる才能がないんだから、もう諦めた方がいいよ。つまり死ねってことだよ。
みなまで言うな。

CoyaNote2024007

目の網膜に光景を映し、耳の鼓膜に音を吸収させる。でも心には届かず、感じることはない。なにも感じない、考えない。ただ与えられた仕事を、何の感情も抱かずに片付けるだけ。

コラージュ技法の応用例について

今回は、コラージュ技法の応用例について実験的な表現を試み、その効果について検証した。

白い画用紙にリンゴ、レモン、オレンジ、果物ナイフ、花瓶と一輪の花のそれぞれの絵を描き、色鉛筆で彩色を施した。

次に、それぞれのモティーフの輪郭に沿って絵を描いた画用紙を切り抜いた。その後、パーツの縁をマーカーでなぞって輪郭線を目立たせた。

こうして出来上がった各モティーフの紙片(以下、「シール」とする。)を、支持体の上に貼り付けて、一枚の図像を完成させた。なお、輪郭線を引いたシールの他に、市松模様や水玉模様の千代紙を切り抜いてテーブルクロスや花瓶敷きを表現したり、色画用紙を切ってテーブルやカーテンを表現するなどの操作も行った。千代紙、色画用紙の縁はマーカーでなぞらず、輪郭線を描いていない。

こうして獲得された図像は、切り紙絵でもコラージュでも、色鉛筆による素描でもない、なんとも形容しがたいものとなった。

まず、三つの果物のモティーフについて、紙の重なりが位置の前後関係となった。これは至極当然のことであり、手で描く時と大差はない。それぞれのモティーフは空気の通る隙間もないほどぴったりと密着したように見え、いわゆる「シールを貼ったような」空間表現となっているが、これも実際にシールを貼っているのだから自明の理である。

強いて特徴を上げるとするなら、物体であるシールが重なっているため、色素による表現よりも「シールを貼ったような」空間表現が、さらにリアルになるということか。複雑に絡み合い、重なり合ったものを表現する場合に、この手法は有効であるといえよう。

果物ナイフ、花瓶についても、物理的にシールを貼っていあるため、より「置いてある」感じが強調されている。彩色を施す際にはみ出した色が切り取られるということも理由にあるだろう。

だだし、現状ではシールを貼っただけのため、モティーフが空間に浮遊しているような印象にもなってしいまっている。空や海の中を舞台にする場合はこれは良い表現だが、地にしっかりと「置いてある」、「載って在る」ことを表わすためには、これに陰影をつける必要があるだろう。

輪郭線によってそれぞれのシールの形はより明確となっている。マーカーで縁取る際は、慎重に行わないとずれたり太さがバラバラになったり、途切れてガタガタ、ジグザグになったりと、縁としてのクオリティーを保てない。

次に模様のある千代紙を貼り付けたことによる効果だが、予想と異なっていた。

市松模様の方は、三つの果物の下に貼り付けたのだが、長方形に切っただけでは遠近感が出ずに、全体的に絵画として破綻してしまった。そこで、下底の辺を長く、上底の辺を短くした等脚台形に切ってみた。手前のにある物は大きく、奥にある物は小さく描く線遠近法を機械的に当てはめたのだが、あまりにも台形の高さがあると、やはり上手くなじまない。これは、市松模様の線が、消失点に向かって収束していないため、線遠近法が成立していないことに起因する。手で描くのと異なり、すでにある模様を用いるため、変更ができない。

今回は何度か調整を行い、一見すると破綻しない程度にそろえることができたが、特に直線による模様の千代紙を用いる際は、遠近感は放棄することを覚悟しなければならない。つまりそれこそが、オールオーヴァーということだ。

また、テーブルやカーテンについては、これまでの切り紙絵による表現の効果とほぼ同じである。

以上、コラージュ技法の応用について、実験的な表現を行った結果の考察である。まだ改善や研究の余地が多分に残されており、それらを解決して、自分のものにしたい。

最近の表現技法について

水彩、色鉛筆、切り紙絵とさまざまな形式の表現でここのところ制作を行ってきた。本来であれば一つ一つの作品が完成したら、その都度考察を書き留めておくのが最も望ましいところであるが、従来の先延ばしの悪癖でここまでずるずるときてしまったので、簡単にまとめておこう。

墨による線描・塗り

今回、実に13年ぶりに墨を用いた。筆ペンではなく墨汁である。輪郭線を引くことと、白黒猫の黒毛の部分を塗ることの2点で用い、描画材も透明水彩とグアッシュの両方、そして道具も筆の他に割り箸を使用し、それぞれどのような効果を得られるか試した。

描画材については、透明水彩では墨はほぼ下の色を覆い隠し、濃く明確な輪郭線となって色と色をセパレートしていた。描線の色の濃さや均一性などは、ペンのそれとほとんど差はない。

一方、グアッシュでは、特に白い絵の具の上では色を覆い隠せずにムラが出てしまった。絵の具の濃さも関係していると思うが、グアッシュでは墨は絶対的強者ではなく、時には下の絵の具層が勝って色が重なってしまうこともあるようだ。

また、グアッシュの均一な平塗りの色と墨の濃くマットな黒の相性はとても良い。ポップであり、多色摺りの木版画や切り絵のような印象も与える。これは表現としてとても強力な武器になりえるだろう。グアッシュでは、ペンだとペン先が引っ掛かってきれいにインクがのらなかったりするが、墨だとそのようなことはなく、滑らか線描できる。

次に墨を引く道具についてだが、筆と割り箸を使用した。筆は、書道用だけでなく、水彩の絵筆も用いたが、特に違和感などはなく同じような感覚で墨は引けるし、塗れる。水につけてよく洗えば、墨はほとんど残らない。書道用だけでは種類にも限りがあるが、水彩も使えることがわかったので、面相筆や平筆、また、刷毛なども用いれば、広い部分も塗れて表現の可能性は拡大する。それが水墨画ということにもなるだろうか。

割り箸に墨をつけて線描するのは、小学生の図工の授業以来か。あの頃は角ばった箸を鉛筆削りで削って先を尖らせて使ったが、最近の割り箸は物をつかみやすようにあらかじめ丸くなっているため、今回は特に加工はせずそのまま墨をつけた。

細い方、太い方と両端を使用した。もう一種類は、2本の棒がくっついて1膳となっているものを、離さずにそのまま使用した。コンビニでもらったものだが、尾の部分が斜めにカットしてあるため、ここに墨をつけて太い線が引けるということで試してみた。

割り箸で描線した感想としては、筆と違って太さが一定であり、均一で安定した線が引けるというものである。筆は力の入れ具合によって太さが変わり、それがメリットであるのだが、同時にそれは手の震えや迷いなどによって太さが変わってしまい、ジグザグ、ガタガタ、凸凹、ギザギザした線となってしまうというデメリットでもある。実際、筆で輪郭線を引いたものでは、線が膨らんだり波打ったりして均一ではなく、醜くなってしまった部分がある。これは技能の問題で、訓練や修行によって上達するしかないのだが、割り箸を用いれば解決できることでもある。

ただし、割り箸ではあまり墨を吸い込めないため、線描の途中で墨がなくなり、かすれたり、色が薄くなったりして、あまり長い線を引くことができない。短い線を繰り返していくと、一本につながらず結局ガタガタした出来となってしまう。ガラスペンであれば墨を吸い込んでもっと長い線が引けるのだろうが、いずれにしても割り箸では短い線でしか均一なものを引けないのであり、これは致命的な弱点である。

短い線ということで、今回格段にうまくいったのが、猫のヒゲ部分の描写である。墨のかすれや、先が細く尖った線が、ピンと張ったヒゲを表現するのに最適であり、筆よりもはるかに優れている。猫のヒゲは割り箸による線描が結論である。このような、短く尖った針のような描線による表現、例えば短い線を何本も重ねていく点描技法の応用などで有効である。

この、墨をあまり吸い込まず短い線しか引けないという弱点は、1膳の割り箸の尾部を用いた際にも露呈している。さらに、太い線の場合は、色の濃さも均一ではなく、下の絵の具の色が透けてしまう部分もできる。これを活かした表現が必要となってくる。

また、細い線だとガタガタしてしまうが、この太さで線をつないでいくと、メリハリのようになってむしろおもしろい。鉛筆を横に寝かせてギュッ、ギュッと刻むように太い線を重ねていくと、竹の節を表現できることに似ている。スケート靴のようにシームレスで滑らかな線は引けないが、バッシュのようにキュッ、キュッと踏ん張って止まり、反転し、方向転換していく骨太で角ばった線は引ける。そのような線による表現にも、魅力は必ずある。
 

以上が、墨を用いたことによる考察である。透明水彩、特に朦朧体による淡くぼんやりとした色彩に墨線を引けば、くっきりと明確な形が生まれる。グアッシュと組み合わされば、フラットでとてもポップな表現となる。筆は水彩用でも問題ないし、筆にとどまらず割り箸も極めて有効である、というような知見を得られた。

割り箸については、墨だけでなく絵の具でも同様の手法を用いることができる。墨/絵の具という二項対立ではなく、墨も絵の具も全部駆使して描くという意識が大切だ。

アクリル板の使用

次に、アクリル板の使用についてである。

購入してから1年近く放置していたアクリル板を、保護フィルムをはがして今回初めて使用してみた。切り取りたい、写し取りたい風景やイメージの手前(ディスプレイや写真など二次元の場合は上)にアクリル板を設置して、モティーフの輪郭をホワイトボードマーカーでなぞる。風景をリアルにスクリーンショットしていくのである。これまではトレーシングペーパーを使ったり、カーボン紙を使ったり、トレース台を使ったりしていたが、それでは二次元のイメージしか写し取れない。三次元の、現実世界にあるイメージを写し取るために考案したものであり、「風景スクショ&トレース法」として今後メソッドを確立していきたい。

さて、その成果については、予想以上に良い。目の前の風景を、とても手軽にスクリーンショットできる。ホワイトボードマーカーなので、線を消すことも簡単で、500×600mmの大画面の中で、好みの比率で下絵をつくれる。トレーシングペーパーよりもさらにモティーフの輪郭がくっきりと見えるので、形の把握はより正確に、曖昧なところのないほど明確なデッサンとなる。

これは今後、主力の武器となるだろう。どうしてもっと早くに試さなかったのか。ともかくこれからは、あらゆるイメージをこのアクリル板に写し取っていく。

水彩と油性色鉛筆の組み合わせ

そのようにしてトレースした輪郭線をもとに、彩色を施していくのだが、今回は水彩絵の具と油性色鉛筆を組み合わせるという試みを、初めて行った。

まず水彩で色を塗っていく。朦朧体の時に獲得した、無色透明の水のみを塗って画用紙を濡らした後に、たっぷりの水で溶いた絵の具を滲み込ませるように広げる。にじみやぼかしが生まれた画面が乾かないうちに、さらに絵の具を重ねていく。ウェット・オン・ウェットで透明水彩の魅力を最大限引き出す淡く夢想的なイメージをつくっていく。

ここまでは今までも行ってきたが、今回は新たな試みとして、色鉛筆をさらに重ねた。とりわけ、目や眉などの小さくて細かい部分は、これまで水彩で描くとシミのようなものしかできず、絵を崩壊させてしまったため、最初から水彩をあきらめて塗らず、色鉛筆で描くことにした。また、髪の毛やハイライト、シャドウとなっている部分、色が微妙に変わっている部分など、水彩で大まかに塗った箇所をより詳細に具体化して解像度を高めていった。

成果としては、こちらも予想以上に良い。透明水彩の朦朧とした淡く繊細な表現と、色鉛筆の濃くはっきりとした表現が、うまく組み合わさり、油彩にも負けないくらい力強い独特の色彩となった。

反省点や課題は、まず水で濡らし過ぎたからなのか、画用紙がボロボロになってしまい、色鉛筆で塗ると一部はがれてしまった。朦朧体、ウェット・オン・ウェットだとどうしても画面がもろくなってしまい、そこに色鉛筆の硬い描線を刻むとこのようになってしまう。また、水彩絵の具の上に色鉛筆の色がなかなかのらないということもある。グリグリと力を込めて何度も色鉛筆を塗るのは、やはり画用紙を傷めることとなる。これには水張りをするなどの対策が必要になってくるし、ウェット・オン・ウェットをやめて水の量を減らしグアッシュ風に塗ることも検討すべきだろう。

それでも、この技法には手応えを感じる。油性色鉛筆を使うのがポイントで、水彩色鉛筆を部分的に溶かすのではなく、水彩と油性との異なる性質の組み合わせだからこそ生まれる化学反応の色彩表現である。

また今回、水彩は赤、青、黄の三原色と白のみで色をつくった。裸婦画で皮膚の色だけで色数が少ないということもあるが、100色もある色鉛筆に対して、水彩は最小限の色で行う、そのコントラストが良い結果を生んだように思える。色鉛筆も塗り重ねれば混色は可能だが、両者の違いを鮮明にするのが最適であると考える。

今回は色鉛筆を用いたが、クレヨンやカラーペンなどでも行える。水彩の塗り(painting)による総論、その上に色鉛筆の描線(drawing)による各論、この二つによって説得力のあるロジカルな絵が生まれる。

切り紙絵

最後に、顔のみをつくって放置していた切り紙絵に、服を着せて人物像として完成させた。全身像ではなく、今回は半身像にした。

顔については、色鉛筆で化粧を施し、よりリアルになった。目の部分は、仏像の玉眼をヒントにして、穴を切り抜いてその下から目をのぞかせるネガ構造にした。こうすることで、福笑いのようにパーツをポジ構造で並べるだけでない、より写実的で力強い顔をつくることに成功した。

ここまでで止まっていたわけだが、今回はその首から下を新たにつくった。服を表現するための紙には、表面が均一でツルツルしている色ケント紙ではなく、ワッフル上に凸凹模様のあるレザックを用いることで、生地のマティエールを表現した。これはうまくいった。これまでのような千代紙の模様だけでなく、紙のマティエールを活かすことで、表現の幅が広がる。他にも、例えば鉄筆で溝を引いてニットの織りを表現したり、エンボスを施すなど、自分で紙を加工することなども考えられる。

また、ブラウスについては、襟やフリル、袖などのパーツを切って重ねた。しかし同じ色のためあまり目立たず、色鉛筆による描線を加えた。フリルの部分は、しわがうまくできたが、他の箇所はなんとか及第点といったところ。そして、色鉛筆で描くのであれば、別に紙を切って貼る必要はないような気もするが、紙と色鉛筆による二重の造形ができることが切り紙絵の強みでもあるので、二度手間ではあるが、この手法は継続したい。

顔と服、そして腕の各パーツを組み合わせて人体像をつくるわけだが、できあがったものはどこかぎこちない、歪んだ姿となってしまった。各パーツがバラバラで人体の有機性が反映されていないため、ネットによくある「コラ画像」のように(実際に紙を貼り合わせ(コラージュ)ているわけだし)なってしまった。

切り紙絵を福笑いやパズルではなく、寄せ木造の彫刻のように優れた造形表現にするためには、さらなる修行が必要である。

さて、とにもかくにもこうしてできあがった人体像を、支持体に貼り付けて絵画(平面作品)とすることは簡単だ。実際にこれまではそのようにして数多くの切り紙絵を制作してきたわけだし、それらの切り紙絵はカンヴァスと同列で展示され、観覧されることになるだろう。しかし、今回新たに出てきた課題は、このような切り紙による造形を、立体作品とすることができないだろうかというものである。

紙は極めて平面的であるが、しかし確かに三次元世界に存在し、xyz軸方向それぞれに大きさがあり、実際に手に持つことのできる立体物である。紙を切り、貼り合わせて形をつくっていく作業は、彫塑のそれと同じであり、切り紙絵は切り紙人形、すなわち切り紙彫塑でもある。これまでは切り紙絵の絵画の要素のみに注目して、完成作品は絵画(平面作品)の形式となっていた。しかし、せっかく物体で造形していくのだから、これをなんとか立体作品にしたいという欲求が生まれてきたのである。

方法としては、まず切り紙を支持体に貼り付けて固定せず、壁にピンで留めたり、テグスで天井から吊ったりして、風を当てて動かす、キネティックアートのようにするというものが思いつく。しかし、ピン留めは壁という場から逃れられず平面的であり、テグスで吊るのはインスタレーションのように大掛かりなものとなってしまう。目指すのは、彫塑のように自立して、どのような空間にも簡単に展示できる立体作品である。

自立させるのであれば、切り紙を厚くすればよい。店頭やフォトスポットにある展示パネルのようなものになるだろうか。しかしこれは、平面作品が四角形でなくなっただけである。

切り絵を、段ボール箱などの立方体に貼り付けるということも考えられる。しかしこれでは、横や後ろから観覧すると作品ではなく物体の組み合わせになってしまう。彫塑のような立体作品を目指すのであれば、360°どの角度から見ても作品となるものにしなければならない。

そもそも、彫塑は360°どの角度からも観覧されることを想定して制作されているのかという疑問もある。人物や動物などの具象作品でも、抽象的なオブジェでも、制作者にはここから見てもらいたいという正面があり、展示や観覧はその方向・角度から行うのが最適解なのだろう。レリーフのような半立体的作品を目指すのが現実的なところだろうか。

発想を変えて、切り紙を壁面、すなわち垂直方向に展示して観覧するのではなく、床面、すなわち水平方向に展示して観覧するという方法もある。陶芸の皿のようなものになるだろうか。正面に対峙するのではなく、上から見るもの、モティーフとしては寝ている人物
ヘソ天の猫、水中の鯉や金魚、俯瞰した風景などが挙げられる。絵画は垂直に展示して対面して見るものという先入観にとらわれず、平置きして上から眺めるという水平思考はアリだ。

結局、現時点で答えはまだ出ていない。人物たちはペラペラした紙の状態のまま、クローゼットの天袋に横たわって保存されている。切り紙絵という手法、表現形式の複雑さ、ややこしさに悪戦苦闘しているが、だからといってそれで制作をやめることはない。平面作品か立体作品かはひとまず保留にしておいて、これからも切って貼っての紙による造形を続けていくことにする。

以上、最近の表現技法について思いつくままに書き散らしてきた。思ったより長文になってしまったが、気づいたことや発見したことなどは遺漏なく全て外在化できたと思う。やること、課題がたくさんある。これからも創作することはもちろんのこと、それについての考察やフィードバックも先延ばしせずに都度しるしていきたい。

2024年4月11日

最近の作品についてはしがき

ペインティングと切り紙絵の融合

空は水彩絵の具、桜の木の幹と枝は墨、鈴のように見える月はクレヨンでそれぞれペインティングした。その一方で、桜の花びらはカラーケント紙をクラフトパンチでくり抜いた紙片を貼り付けることで表現した。ファインアートのペインティングとクラフトの切り紙の融合を試みたことになる。

結果はまずまず。花びらの形となった紙片は、物体としても花びらを表現するのにとても適している。表現というよりも、擬態、あるいは花びらという物質を紙という別の言語に翻訳したととらえた方がより的確かもしれない。紙片の物理的な重なりがそのまま花びらの重なりとなるのだ。

型紙を使って同じ描画材でステンシル技法で描くことと、何が違うのかという疑問もあるが、実際に月を円く切り抜いた型紙をあててクレヨンをぐりぐり塗って表現したものと比較してみると、形の明瞭さが圧倒的に違う。紙という物体を介しているため、手にとって触れることのできそうな実在感がある。文様であればステンシルでも構わないが、実在する物体を表現するには、紙をくり抜いたものでいきたい。

クラフトパンチの種類に依拠してしまうのだが、今は大きさもさまざまなものが販売されているので、表現できるものの数は思いのほか多い。今回のような花びらであれば、桜の他に、梅、デージーなど数種類あり、葉や星、音符やハートなど、バラエティーに富んでいる。くり抜く紙も、数多くの色、マティエールがあり、また千代紙など文様のあるものの使用もありえる。組み合わせは無限だ。

またペインティングの方では、今回初めて墨汁に水を混ぜてみた。原液の時は均一でマットな色であったが、水を含めて塗ると当然ながら薄くなったり、にじみやムラもできる。霜焼けした肌のようなマティエールは、木の幹を表現するのにとてもふさわしいものとなった。このマティエールは、霜の降りた土や爬虫類の表皮などの表現にも有効だ。

また、月の部分は型紙を使ってクレヨンでステンシルを行ったのだが、これも新たな体験となった。円く輪郭線を引いてから中を塗り込んでいくのと違って、何往復もぐりぐりとストロークを重ね、型紙を外してみると、円くこんもりと塗られたクレヨンの色ができあがっていた。このクオリティーはとても高い。型紙を使えば、朦朧体よりも高い精度で行えるという発見となった。

さらに、今回型紙に使用した紙がわりと薄いものだったからなのか、塗りつぶしたクレヨンの外側に、紙を透かして油がしみた痕ができていた。それが月の周りの暈を表わしていたのは全くの偶然ではあるが、これもただクレヨンのみで描画していては得られない、ステンシルならではの効果である。この油じみは、人間の周りを覆うオーラとか、疾走する馬や車が切る風など、目には見えないものを表現するのに使える。

ペインティングか切り紙か、ファインアートかクラフトか、そのようなものにとらわれているうちは、美味い絵は描けない。カテゴリーなど無視して、ボーダーレスに表現していかなければならない。

紙にアクリル、偽善体、輪郭線ありのスタイルで描くことについて

アクリル、偽善体、輪郭線ありという、これまでカンヴァスでずっと描いてきたスタイルを、紙でも行ってみた。元々はF12号のカンヴァスに描くつもりで作成した小下図を、それよりひとまわり大きい半切りサイズの画用紙にトレースした。

今回のテーマは至極単純で、大きいサイズのカンヴァスは値段も高く、ジェッソを塗る手間もあり、完成した後もかさばって保存や運搬も苦労するため、代わりに支持体を画用紙にできないだろうかというものである。つまりは大きさの問題だ。四六判やA0判、B0判であれば、50号、100号クラスの画面サイズであり、大型作品が描ける。当然ながら、画用紙の方がカンヴァスよりも安価であるため、数多く描ける。完成後は丸めれば保存も運搬も楽で、掛幅に表装することも可能だ。

実際に描いた結果から、この方針でいけると確信した。水彩に最適な画用紙は、ジェッソを塗らなくても偽善体の色彩表現を行うことができる。画用紙が毛羽立ったり、破れたりすることもなく、絵の具の二度塗りにも充分に耐えられる堅牢さだ。さすがに水張りをしないと丸まってしまうが、対処は可能である。

結論として、カンヴァスと全く変わらないスタイルで描けるということがわかった。画業の第3章となる今後は、画用紙に偽善体で描かれた大型作品が生まれていくことになる。

2024年4月14日

追記

書き忘れてしまったので追記するが、A4サイズの色画用紙に2点素描を制作した。どちらも表面に文様が施されており、そのマティエールを活かした絵にすることをテーマとした。

若草色であられのような小さな文様が散りばめてある方の紙には、色鉛筆による朦朧体で描いた。色鉛筆を塗ると、こすり出しで紙の文様がよりくっきりと浮かび上がってきた。衣装や顔、カメラなどさまざまな物質を表現するにあたり、うるさくなり過ぎず、朦朧体のぼんやりとして淡く、夢想的な雰囲気を上手に引き立てていて、良いできである。これに輪郭線を描いてしまったなら、どんなに細いものでも、おそらく台無しになってしまっただろう。この文様、この種類の紙は、マティエールとしておもしろいものがあり、今後も素材の選択肢に入ることになる。

一方、朱色の紙は、アーガイル柄が入っていて、かなり主張が強い。これに色鉛筆を塗ると、色と文様がぶつかってケンカしてしまいそうなので、こちらは描線によるドローイングとした。簡素なフォルムであるが、アーガイル柄の画面の中に上手く溶け込んでいる。この紙に朦朧体で描いていたら、ぼんやりとした色彩とくっきりしたアーガイル柄が衝突して破綻してしまっただろう。この文様には、描線のドローイングが正解だ。とても特徴的で目立つ文様であるため、扱いに工夫が必要だが、この種類の紙もまた魅力の多いものである。

カラーバリエーションも豊富で、表現の幅が広がる。文様のある紙のマティエール、それも利用しての絵である。

切り紙絵の立体化について

切り紙絵を立体作品にできないかという課題に対して、さっそく実験を行ったので、その結果と考察を書き記しておく。

まず、各パーツを組み合わせた切り紙絵に厚紙を貼り付けて強度を上げ、ペラペラの紙片から安定させる。厚紙の厚さや種類は適宜選択するものとし、今回は厚さ1mmのボール紙を使用した。

切り紙絵が厚みを持つことになるため、厚紙は切り紙絵の形に合わせて切るのだが、ここで問題となるのが、切り紙絵を厚紙に貼り付けてから切り抜くのか、あるいは形をトレースして厚紙を切り抜いてから切り紙絵に貼り付けるのか、順番をどうするかである。今回は実験ということで、切り紙絵を厚紙に貼り付けてから形を切り抜いたが、この順番については、作業効率や作品の出来栄えに影響する重大な部分のため、より深い考察が必要である。

さて、このように厚みを持った切り紙絵を立体化させる、すなわち自立させるためには、以下のような方法が考えられる。

  1. 裏側に背骨をつける(片面立体)
  2. 表とウラの2枚切り紙絵をつくり、背骨を挟む(両面立体)
  3. 2.の切り紙絵について輪郭より一回り大きく切り取り、輪郭線に沿って折り曲げてマチをつくる
  4. 背骨はつけず、表とウラの端を貼り合わせ、袋状にして中に詰め物をし、ぬいぐるみのようにする
  5. 背骨ではなくスマホホルダーのような土台にはめ込んで自立させる

当初は1.を目指して制作したが、どうもしっくりこないため、2.に路線変更してウラ側(背中側)の切り紙絵をつくり、背骨を表とウラの2つの切り紙絵で挟んでみた。

背中側をつくったのは画期的であった。一方向だけではなく、表とウラの二つの方向から見ることができるため、これはまさに立体作品である。これまでの切り紙絵を大きく進化させるものだ。

そのように正面と背中麺の二つを背骨が支えて自立させるのだが、こうなるとどうもこの背骨が邪魔なものに思えてきた。二つの切り紙絵の隙間をなくし、正面と背中面がくっついていた方がもっと良いものとなると考え、背骨をなくした。すなわち4.の方法にしてみたのだ。ただし袋状にはしなかった。そして5.のように、L字の形に折り曲げたゼムクリップを足下に装着させることで、背骨なしで自立するようにした。

結果的に完成したのは、切り紙による人形であった。とても単純で、どうして最初からこれを思いつかなかったのか不思議になるほど自然なものである。店頭やフォトスポットなどにある等身大パネルが片面印刷(片面立体)のようなものであるとするなら、この人形は両面印刷(両面立体)とでも呼ぶべきだろうか。雑誌のふろくなどで、紙を切り抜いて骨格を表とウラの両方で挟む着せ替え人形があったが、答えはそれであった。

なお、3.のようにすれば、背骨があってもきれいに見えるのだろうが、マチを計算して切り抜くことがとても煩雑で、そしてマチをつくるとしわ寄せができるのでどこかで調整しなければならず現実的でない。よって今後、切り紙絵の立体化において、背骨とマチは選択肢から外すことにする。

さて、このように両面ある切り紙絵人形を、背骨なしで自立させるために、今回はL字の形に曲げたゼムクリップをくっつけた。ゼムクリップ以外にも、L字形で硬いものなら何でも使える。そして靴下と靴を上から被せれば、部品は見えない。これもどうして最初に考えつかなかったのかと疑問に思うほど自然だ。

かくして、切り紙絵の立体化は一つの確立を迎えた。一方向からではなく二方向から見れば、それは立体作品だ。今回は人物像だったので正面と背中だったが、例えばこれが猫や犬などの動物だったら、横顔をくっつけるということもありえるだろう。大切なのは同じ形の切り紙絵を二つつくるということである。

ここで、今回の実験で失敗したことも書き残しておくことで、今後の教訓としたい。

切り紙絵を厚紙に貼り付ける際に、スプレーのりを使用したのだが、缶をよく振らなかったからなのか、だまになって表面に付着して、汚れてしまった。ドライヤーで加熱して砂消しで削ってなんとか気にならない程度には取り除くことはできたが、スプレーのりはこのように作品を汚して台無しにしてしまうおそれがある。広い面積をしわなく貼れるのがスプレーのりの利点であるが、安全第一でいくならば、紙用ボンドかしわなしスティックのり、やまと糊などを使う方が無難だ。

また、切り紙絵を厚紙に貼り付けた後に、その形に切り抜いたのだが、上手く切れずに切り口がガタガタ、ギザギザになってしまった。今回は1mmの厚さの厚紙を使い、鋏ではキレずにカッターで切ったのだが、厚みがあるためにきれいに切れなかった。技術の問題ではあるが、厚紙を上手に切れないと切り紙人形がつくれないので、早急に解決しなければならない。

また、表とウラの紙は同じ形で切り抜いたのだが、厚紙を挟んで貼り合わせる際にずれてしまう。こうなると、はみ出した部分を切り取らなければならず、あっちもこっちも切り落としていくうちに、バランスが悪くなってしまう。

切り紙絵を二枚、厚紙に貼り付けてその形に切り抜くというだけの作業なのに、不器用だとこうも汚くて醜い仕上がりになってしまうのか。きれいに切れる道具の入手、きれいに切る技術の修得、それが必要だ。

その他、足首の部分を折り曲げて、靴を履いている表現をしたのだが、靴に高さがないため、ぎこちなくおかしな見た目になってしまった。三次元の世界を二次元で表現し、それをさらに三次元に戻そうとすると、このようなひずみや歪みが生じるのか。

厚紙に貼り付けて切り抜くから、このような切り口のガタガタが生じる。しかし厚紙に貼り付けないと、芯材がなくペラペラしてしまい自立しない。ジレンマのような状態だが、コペルニクス的転回としては、芯材を貼り付けず、形を切り抜かないということになる。

芯材は切り紙絵の幅より小さくして、なるべく見えにくいようにする。二枚の切り紙絵は、頭頂部のみ貼り合わせて、芯材に被さるようにする。寄席にあるめくりのようなもの、あるいはオブジェなどを展示する際に使用する土台のようなものになるだろうか。芯材は厚紙以外にも、竹串のような細いものでもよく、まさに骨組みのように切り紙絵を支えることとなる。

二枚の切り紙絵は、貼り合わせないが、できるだけ隙間があかないようにいったりとくっつくようにする。しかしながら、まったく同じ形にして重なりあうようはみ出した部分を切り取るということはしない。そのずれを楽しむようにする。

ペラペラした紙という平面、しかし二方向から見ることができ、自立する立体でもある、平面のようにも立体のようにも思える、不思議な造形表現、それこそが切り紙だ。

今回の獲得より、厚紙を形に切り抜いた人形、そして芯材で二枚のペラペラした切り紙を支えるオブジェ、この二つの路線でいこうと思う。

2024年4月18日

第20冊ノートを終えて

書き出したら紙幅が足らずに、次のノートに繰り越すこととなった。色違いの同じデザインのA罫、B罫のノート2冊にわたって書くのは、20年ぶりだ。あの時と同じように、最初から上下巻の2冊にするコンセプトがあったわけではなく、書いていくうちに止まらず次のノートを慌てて用意して続くという流れである。

さてこのノートでは、美術作品の創作で得た知見についての考察が記録されるようになった。ついには添付資料として、色を塗った紙片が貼り付けられることとなり、メモなのかネタ帳なのか、あるいはレポートなのかもはやわからないほどカオスとなってきた。短歌や俳句のための推敲、韻文・散文の書き殴り、絵を描いた時の感想など、創作の実践についてだけでなく、理論面でのテキストも書かれるようになった。理論と実践、それを二項対立ととらえるのではなく、そのどちらをも行っていくこと、その記録を言葉として刻んでいくことが、このノートのあるべき姿だろう。

このノートにも書かれたように、美術作品においては、朦朧体と切り紙人形という、今までになかった新しいスタイルを獲得することとなった。画業は第3章に入るのだが、明確にここからだと高らかに宣言するのは、もう少し先になる。いきなりスパッと切り分けるのは困難で、試行錯誤を繰り返し、移行期間を経てから次の章へ進むのが実際のところだ。

すでに書き出している次のノートには、画業第3章がスタートするとの宣言が刻まれることになるだろう。

2024年4月18日 プラス思考でCoya