第21冊ノート(2024年4月18日~2024年7月6日)

CoyaNote2024008

短歌・俳句の形式として、横書き・改行ありというものを試みてみたい。

いうまでもなく短歌・俳句は、日本の伝統的な文学として連綿たる歴史がある。それはまた、縦書き・改行なしの一続きという表記でなされてきた歴史でもある。歌集・句集として書物になる際も、この原則は徹底されてきた。

しかし、21世紀も20年以上経ち、技術革新やグローバル化が意識できないほど当たり前となった今日、私たちが目にするのは横書きの方が圧倒的に多い。ウェブサイトやSNSをはじめとするコンピュータの表示形式も、ノートやメモを書く形式も、世界は横書きを基本として構成されている。それは、西洋文明による支配と日本文化の敗北を意味しているのだろうか。いや、違う。逆に、西洋文明の限界と日本文化の勝利である。

アルファベットによる西洋の文章、表記は横書きが前提、むしろ横書きしかできない。本の背表紙など縦長のスペースに表記する場合、90°倒した形となり、読む際は首を傾けなければならない。アルファベットを無理やり縦組みにすることはできるが、可読性が極端に下がって情報伝達能力が著しく落ちてしまう。通常は縦書きにすることがないのだからこれは至極当然のことであり、縦書きというイレギュラーな、しかししばしば起こりうる事態に遭遇した時に対応できないのは、西洋文明の限界といえるだろう。

これに対して日本語は、縦書きも横書きも自由自在である。長らく縦書きで行ってきたものが、西洋文明の流入、そして技術革新やグローバル化の波の中でも、可読性と情報伝達能力を少しも落とすことなく横書きに完璧に対応できているのであり、これはもはや日本文化の勝利といってよいだろう。縦書きもできるけど、能力の劣る西洋文明のレヴェルに合わせてわざわざ横書きにしているのである。

このような縦書きと横書きの二項対立、あるいは日本と西洋の文化の比較を踏まえて、今ここで、日本の伝統的な文学である短歌・俳句を西洋の形式である横書きで行ってみようと思う。それは伝統を蔑ろにするとか歴史を知らないということではなく、時代に合わせるという柔軟な対応である。ウェブサイトやSNSなどに掲載するために、形を変えるのは生き物として当然の進化だ。

もう一つ、改行ありの短歌・俳句についてだが、これは誤読や不明瞭さを排除し、作者の意図を100%伝えるための方策である。

伝統的な短歌・俳句は、改行のない一続きの言葉の連なりとして書かれてきた。歌集・句集として書物になる際も、規定の文字数を超過する分は折り返して表記される。シームレスな文字の羅列、それはキャッチコピーのように一瞬で見る者の心を掴むインパクトがあるだろう。

しかしそれは同時に、鑑賞者によって複数の解釈の可能性を生み、一読して澱みなく作者の意図や主張を伝える妨げにもなりうる。どこで区切るのかわからない、この言葉がどこを修飾しているのかわからない、そのような事態がしばしば起こる。

西洋のソネットや漢詩などを見てみると、詩は改行を伴う形式である方が大多数のようだ。短歌・俳句も詩の一種である以上、改行をすることにはなんらの問題もないはずである。

そもそも、短歌・俳句にも、ここで一度流れを区切り、次の内容へと場面が切り替わるターニングポイント、すなわち「句切れ」というものがある。もちろん「句切れなし」のこともあるのだが、いずれにしても区切れの箇所で改行することで、誤読の可能性は大幅に減り、読みやすく、そして理解しやすくなる。

また、五・七・五あるいは五・七・五・七・七という音数の節目と意味内容における区切りが一致しないということもある。日本語は五七調、七五調が最もリズムよく音読でき、私たちは遺伝子レヴェルで無意識のうちに短歌・俳句を五七調、七五調で享受しようとする。これと意味内容とにずれが生じると、鑑賞の際リズムにのれず理解にも時間がかかり、心地が悪い。これを避けるために、改行を入れる必要もある。五七調、七五調という音声上の理解と、意味内容における文字表記上の理解の両面で誤読や不明瞭さをなくしてわかりやすくするための改行である。

石川啄木が近代短歌で革新的なのは、三行書きという表記をしたからである。すなわち、短歌・俳句で改行するのは決して荒唐無稽なことではなく、啄木の精神を現代に甦らせるだけなのだ。

以上、横書きと改行ありという表記、形式によって、これからは短歌・俳句を詠んでいこうと思う。創作活動の新たな段階の一つ。

2024年4月20日

切り紙の立体化についての実験 2024年4月24日現在

前回までの考察を踏まえて、切り紙の立体化について更なる実験を行った。

正面と背中の2枚を切り抜いて正面の方に顔などのパーツを貼り付ける。反省点というか失敗は、紙のウラに切り取るための線を引くのだが、背中の方は表に描いてしまった。表とウラのどちらが見られる側になるのか、しっかりと認識しないとすぐに間違えてしまう。

裁縫のように、紙片の端を貼り合わせていく。芯材はモティーフの形ではなく細長い板状にして、袋状になった切り紙に突き刺す。厚さ1mmのボール紙では強度が足らずにへたってしまう。人体像で高さがあるため、バランスが崩れやすい。厚さ5mmの木の端材であればしっかりと紙片を支える柱となった。

切り紙と芯材が一体化したものを、靴の空き箱に突き刺して立たせる。土台である。芯材をこのように用いる場合、土台が必要となる。作品の本体以外の部分ができてしまうわけだが、ここは認めるしかない。土台のある彫塑もたくさんあるし、全身像でなければ、自立していないという印象は薄まる。椅子や踏み台に見立てるなど、土台があることに必然性と理由を持たせれば、さらにしっくりと受け入れられるだろう。

制作した感想としては、やはり背中側からも鑑賞できるのは良い。360°ぐるりとひとまわりさせて立体感がわかる。よりリアルに迫ってくる。二面性こそが立体作品の肝だ。

また、腕を曲げることで生じる隙間など、作品が空間と溶け合うことも、立体作品ならではの魅力である。

まだ実験作の段階のため、造形的にぎこちない点も多数あり、より改善の必要があるが、この手法に手応えと可能性を感じる。引き続き試行錯誤を繰り返して、メソッドを確立させ、作品を創っていきたい。

その他気付いた点として挙げると、まず、ケント紙にマスキングテープを貼ると、表面がはがれてしまうということである。目を玉眼手法で表現する際に発生したのだが、切り紙の仮留めにマスキングテープは使えない。これはかなり致命的だが、他の方法を考えるしかない。

また、体の部分の切り紙は2枚必要だが、髪はウイッグを被せるように1枚で正面と背中の両方に掛かるようにした方が、より自然でリアルな表現となる。

以上、取り急ぎ気付いた点について、備忘録として書き残す。

2024年4月24日

追記

完成させた切り紙彫塑をパソコンの横に設置して他の作業をしていたのだが、目に入る存在感は圧倒的である。支持体に貼り付けて平面作品にしてしまっていたら、これほどのリアリティーは得られないだろう。これぞ立体作品の力だ。この方向でどんどん切り紙彫塑を創っていこう。

最近の制作について 2024年4月28日現在

ついに切り紙絵は、折られることで立体作品になるという新たな段階へと突入した。

赤いチェックのスカートとニーハイソックスを履いた人物の下半身部分のみを、切り紙で制作。スカートとソックスは2枚の紙片を袋状にする一方、脚は1枚のみで、スカートから突き出て、ソックスを履かせるように袋の中に突き刺してみた。これも新たな試みである。

なお、最初ソックスの紙を2つ折りして端を糊付けしたのだが、脚の形に切り抜いたら貼り付けていないので外れてしまった。よく考えればわかる簡単なことなのに、実際にやってみないとわからないというのは、想像力が欠如している。

そして、この下半身を腰掛けるための椅子もつくった。円筒形のお菓子の箱を素材として、背もたれのないストールにした。色画用紙を表面に貼り付けることも考えたが、せっかくなので絵の具で色を塗る、そのためにジェッソも塗るということを行った。

ジェッソの効果は圧巻である。水で薄めたり、何回も重ね塗りせず、一度の塗りでも充分である。1時間もあれば乾くし、今までカンヴァスに手間をかけて苦労しながら塗っていたのは間違いであったことがわかる。これがジェッソの正しい塗り方だ。

そしてジェッソを塗ると、アクリル絵の具の定着と発色も格段によくなる。ムラやかすれのない均一な色が得られ、まるで塗装したかのようだ。アクリル絵の具は紙やカンヴァスに絵を描く時に使うだけではない。ジェッソと併せて用いれば、石や木などさまざまな素材に塗れるのだから、これから立体作品を制作していく上で主戦力となる。

きれいに色が塗れた後で、色画用紙をハート型にくり抜いた紙片をシールとして散りばめて装飾としたのだが、これは完全に蛇足であった。せっかくのパステルミントグリーンの淡い色が、ラベンダー色と合わさるとケバくなってしまった。実験を行う上で失敗はつきものであると納得させた。

こうしてできた椅子に、切り紙人形を座らせてみた。臀部と膝の2箇所を折ることで、脚をぶらぶらさせてスツールに腰掛ける下半身像が表現できた。とても良い。360°回転させてどこからも鑑賞できるし、実在するマテリアルを使っているから、立体感やリアリティーが違う。切り紙による立体造形は、切った貼っただけでなく、そこに折るという手法も新たに加えることで、より豊かなものとなるのである。

これからは「切り」紙ではなく、「ペーパーアート」と呼ぶことにしよう。

2024年4月28日

CoyaNote2024009

正解はないかもしれないが、絶対的な間違いというものは確実に存在する。そしてそれを選んでしまうのが、残念ながら君だ。

CoyaNote2024010

20年以上前、高校生の頃に読んでいた美術雑誌。画家や作品の紹介の他に、絵の実技講座が連載されていて、独学だったためこれを教科書にしていた。あの頃、確かにこれらの記事から影響を受けていた。

大人になって、かなりの数がある雑誌の中から、この部分のみ抜粋して今こそ参考にしようと思った。100頁以上ある雑誌のうち、わずか数頁を切り取る、それだけのはずだった。背表紙を裁ち落とせば、1枚1枚のバラバラな紙片になる、とても簡単な作業。しかし障害者である君には、そんな誰でもできることも困難で、力任せに強引に頁を引っ張って、破いてしまう。

どうしていつもこうなんだろう。ちょっとでもうまくいかないと、すぐにイラついて無理矢理に八つ当たりして全て壊してしまう。雑誌だけではなく、仕事でも創作でも、そして人生そのものでも、何でもそうやって台無しにしてしまう。

もう障害なんだから、治そうとか改善しようとか、対策して克服しようだとか、そんな考えは捨てることだ。結局待っているのは絶望だけなのだから。

無惨に醜く破かれた抜粋は、セロテープを貼ってつぎはぎにし、これまた不恰好な姿で保管されることとなった。

2024年5月12日

今後のタブロー画における偽善体の方針について

ジェッソを塗って下絵の線を入れたままでしばらく放置していたカンヴァス2枚を、本日彩色して完成させた。

いつもの偽善体で描いたのだが、今回は最後の仕上げの輪郭線を、アクリル絵の具とペイントマーカーの2種類で描いてみた。どちらも一長一短あるのだが、画業はここで一区切りとなることから、ここで次の段階における偽善体の方針について、課題点などを挙げておくことにする。

一番の関心事項は、輪郭線の引き方だ。制作の最後、絵に命や魂を吹き込む極めて重要な過程であるが、それをどのようにするかということである。

これまで10年以上、三菱ペイントマーカーを用いてきた。インクでひたひたにしたペン先を使い、アクリル絵の具とは異なる素材、異なる性質の輪郭線を引くことになる。一番のメリットは、ペンであるため、太さの均一な安定した線が引けるということである。アクリル絵の具を筆で塗ると、途中でかすれたり、手の震えや力の入れ具合で太さにばらつきが出て、求める線を得ることが難しい。これは油彩画の頃から長年の課題であったが、アクリル画に転向することでペイントマーカーを採用できて一定の解決を見たものである。

こうして、彩色をアクリル絵の具で行い、仕上げの輪郭線はペイントマーカーで引くという手法でかれこれ10年以上描いてきたわけではあるが、次第にこれだけでよいのだろうかと疑問を抱くようになった。

ペイントマーカーによる線描のデメリットは、ペン先が絵の具に引っ掛かってインクがうまくのらず、透けてしまうことがあるというものだ。何回かなぞってインクを重ねればある程度解消できるが、そこだけ不自然に太くなって全体のバランスが崩れてしまうこととなる。

筆でアクリル絵の具を塗る線描も何度か試みたが、なかなか満足のいくものはできなかった。これは単に力量、技術不足なだけなのだが、現状を打破して更に上達したいという向上心の現れでもある。

文明の利器で、他の人の制作の様子を簡単に視聴できるようになった。そこにあったのは、まるでトーストの上で溶けるバターのように少しの摩擦も引っかかりもなく、滑らかに筆を動かして線描している映像であった。あまりにも流麗で、隙がなく、そして線描によってくっきりと形が浮かび上がってくるモティーフに、息を呑むほどであった。こんな風に線描をしてみたい。純粋な憧れである。この線描によって、偽善体は更に一歩高みへいけると思う。

そのようなわけで、今後の輪郭線はこれを最終目標とするのだが、いきなりは無理である。それは日々の精進や研鑽、絶え間ない修行によってのみ達成できるのだが、それでも工夫できる部分もあるはずだ。うまくまとまらないので、思いつくままに列挙しておく。

根本的なこととして、今後ペイントマーカーを使うのか、否か。

アクリル絵の具で線描するとしたら、どのくらいの太さの筆を使うのか。輪郭線専用の筆を1本決めたい。

あるいは、昔使い方がわからないまま買って結局ほとんど日の目を見ていないカラーシェイパーを用いるのか。しかしカラーシェイパーは絵の具を引っ掻くグラッタージュのためのものらしく、それは本来の使い方ではないようだ。

他に、墨汁を使うということも考えられる。これなら、途中でかすれることはなく、筆先も引っかからず、問答無用でアクリル絵の具の上にマットな線を引くことができる。

以上、検討事項としては今のところ、ペイントマーカーか、アクリル絵の具か、アクリルだとしたら筆かカラーシェイパーか、あるいは墨汁かということになる。

すぐに応えや結論が出るはずはないので、制作しながら一つ一つ実験し、試行錯誤を繰り返しながら確かめていくしかないだろう。その考察は都度このノートに書き留めていくことにする。

いずれにせよ、次のタブロー画からは、社会人第3章となる。

2024年6月2日

追記

マスキングテープやマスキング液の利用が有効だ。

CoyaNote2024011

下手に上手くいって
いびつで中途半端な成功体験をすると
ゆがんだ自己肯定感を得てしまい
身の程もわきまえず自分を過大評価する
驕り高ぶる天狗となって
本人のためにも良くない

あの時は上手くいったのだから
今回もなんとかなるはずだと
何の根拠もない自信や前向きさが
破滅を加速させる
あの時の成功体験が
あの時の興奮が
あの時の喜びが
あの時の幸福感が
忘れられないと
いつまでも過去の偶然による栄光を引きずって
現状を客観視できない
成功体験は麻薬であり
一度味を知ってしまうと
中毒となってそれなしでは生きていけなくなる
依存性の高い危険物だ

だから

最初から成功なんてしない方が良い
一生無力でいろ

蚊取り線香と汗のにおい

蚊取り線香を焚いたら、煙が部屋に充満してにおいがひどい。目にしみる。加えて、汗をダラダラとかき、皮脂の出汁のような不快さを放つ。煙と汗のにおいが混ざり合った、世にもおぞましい悪臭。

連日の厳しい暑さで、カチ割れそうに頭が痛く、日焼けした肌がヒリヒリとうずく。夏が楽しいのは、人生を健康的に生きている一部の特権階級のみで、発達障害者にとっては拷問以外の何物でもない。今年もまた、あの耐え難く苦しい季節がやってきてしまう。

病気休職をして1年以上が経ち、もう復帰など望まない方が賢明であろう。フツーの、まともな仕事など出来るはずもない。最近では、また過去の嫌な記憶が頻繁によみがえってきては、苦しめられている。設定にバグがあるとネタバレされた人生は、もはや何を目標にすればいいのかわからない。

あきらめ、絶望、投げやり、自暴自棄、おおよそ前向きな要素のない残りの人生。消化試合の敗戦処理投手のように、無意味で無価値な日々をダラダラとみっともなく垂れ流していくだけだ。むなしい。

2024年7月6日

第21冊ノートを終えて

前冊からの続きで慌ただしく始まったこのノートは、およそ3ヶ月で終わった。絵画制作で獲得した成果を考察し、手紙の文章を思案し、短歌や俳句を推敲していく。用途を限定せず、言葉を書き殴って練り上げていくネタ帳としての使い方もだいぶ定着してきた。今後もこのスタイルでいくのだろう。

生活の方は変化も進展もなく、病気休職はもう1年以上も経ってしまった。もうこれ以上何を望めるというのだろうか。社会不適合者のクズであるところの発達障害者という認識を確定させる作業だ。

絵の方は、最近やけに精力的に制作している。どうしたものか。こんなに下手くそなものをいくつも生み出して、無駄を増やすだけだというのに。

七夕を翌日に控え、これからまた暑い夏が始まってしまう。夏が終わる頃には、次のノートも終わっていることだろう。

2024年7月6日

プラス思考でCoya